広間の奥に佇んでいたのは、背の高い青年だった。
冷えた銀の髪。鋭い灰青の瞳。
王宮の噂通りの“氷の王子”、カイル・ヴァレンティウス。
「……本当に、来たのか」
抑えた声。だがその中には、驚きとわずかな興味が混じっていた。
「もちろんです。正式な文書も用意しております」
「なぜ俺に? 第一王子に近づく方が、簡単だったろうに」
リシェルは迷いなく答える。
「第一王子殿下には、“気に入られた者が壊される”という噂がございます」
「私の目的は生き延びることであって、弄ばれることではありません」
カイルの瞳が僅かに見開かれる。
彼女の冷静さと、内に秘めた強さを見抜いたのだ。
「……契約の内容を、もう一度確認しよう」
「お前は“俺の婚約者”として振る舞う。だが本物の婚約ではない。
一年後には関係を解消し、互いに自由になる」
「はい。対価は、私の“悪評”の利用と、あなたの“自由な立場”です」
「そして、“俺に手を出す者”からもお前は守られる」
「はい。……その覚悟で来ました」
沈黙。
そして、静かに差し出された手。
「ならば、契約だ」
リシェルも手を伸ばし、その手を握る。
冷たい。けれど、芯のある温度だった。
──その瞬間、心の奥で何かが揺れた。
“この人を、裏切りたくない”という、ありえない感情。
けれどリシェルはそれを振り払う。
これは契約。偽りの婚約。感情など、必要ない。
「これより私は、第二王子殿下の婚約者──“として”振る舞います。
……あなたの盾となり、矛ともなりましょう」
「そして俺も、“お前だけは守る”と約束しよう。
これは感情ではない。誓約だ」
指輪もなく、愛もなく、それでも確かに結ばれた手。
それは、王都の運命を変える偽りの始まりだった。



