【1】文化祭の朝
秋晴れの空の下、学校はいつもとはまるで違う顔を見せていた。
生徒たちの笑い声。飾りつけられた校舎。手作りの看板に彩られた屋台。
そして、その中心にあるのは──
「お化け屋敷、開店ですっ!」
ひよりの元気な声が、廊下に響いた。
理央とひよりが企画したのは、「記憶×感情」をテーマにした体験型お化け屋敷。
体験者が「忘れたくない記憶」をひとつ思い浮かべて入場し、その“記憶”が徐々に揺らがされる演出が加わった、まさにふたりらしい企画だった。
理央は裏方として、照明や音響、感情トリガー装置を操作する。
「ひより、呼び込み任せた。俺、電圧制御するから」
「うん! みんなの“心”をびっくりさせてやるよ!」
その瞳には、以前のような迷いや戸惑いはなかった。
忘れた記憶をただ取り戻すのではなく、これから“作る”恋と絆を信じていた。
【2】観客、続々!
行列ができるほど大盛況のお化け屋敷。
最初の来場者は、まさかの──
「やっほー。ユウナちゃん、来たわよぉ」
「先輩って、ほんと怖いの平気なんですか……?」
そう、こよみとユウナだった。
しかも、こよみは完全なコスプレモード。
黒いフードにマント、カメラまで持ち込んで完全に実況体制である。
「このコーナー“失恋の部屋”って最高にエモくない? ユウナちゃん、泣いてもいいよ」
「むしろ先輩が泣いてください……」
中ではマヒルが案内係をしていた。
「おかえりなさいませ、お嬢様たち。記憶はどちらに預けられますか?」
ユウナがふっと笑う。
(ああ……やっぱりこの空気、好き)
【3】理央の決意
休憩時間。
音響室に一人残った理央は、ひよりの描いたポスターを見つめていた。
「“記憶がなくても、心はつながってる”……か」
その言葉は、彼の中の“何か”に触れた。
胸の奥で、わだかまっていた想いが疼く。
(いつか、全部話さなきゃならない。俺が“記憶”にこんなにも執着してた理由を)
理央の家は、IT企業の名家だった。
だがその中には、記憶改ざんやデータ洗浄といった倫理の裏側を担っていた研究部門があった。
そして──理央の兄は、記憶干渉で心を壊し、家を出たのだった。
「だから、俺は記憶を守るんだ。誰よりも、君の心を」
【4】ひよりの“初ステージ”
午後。文化祭のクライマックスは、特設ステージでの演目。
なんと、ひよりは“即興スケッチライブ”に出演することになっていた。
「え、無理無理無理無理! 絵を人前で描くなんて……!」
「大丈夫。俺が後ろで音楽流すから。ほら、ひよりの“心の絵”って、誰よりも人の感情を動かせるから」
震える指先。
けれど、そのとき──
客席からマヒルとユウナ、こよみがガッツポーズで手を振った。
「がんばれ、ひより!」
「ビビってんじゃねーぞ!」
「おーい、うしろすごい並んでるよー!」
──その声が、背中を押してくれた。
【5】“感情が届いた瞬間”
筆を取り、キャンバスに描き出す。
そこに現れたのは──理央と手をつなぐ少女の姿。
あたたかな光に包まれた、教室の中の一瞬の情景。
「これは、“恋を覚えている心の記憶”です」
ひよりの声がマイクを通して響いた。
「わたしは一度、恋の記憶をなくしました。でも、その人がわたしの心を、もう一度あたためてくれました」
観客の中で、目を潤ませる人もいた。
(私は、誰かの記憶になりたい。心に残る、“大切な人”になりたい)
その瞬間──
ひよりの目に、ステージ脇の理央が、そっと涙を拭う姿が見えた。
【6】暗がりの影
午後三時。文化祭の盛り上がりが最高潮を迎える中、ひよりは片付けをするためお化け屋敷の裏手へ向かっていた。
「ん……ここ、暗いな。倉庫、開けっ放し……?」
ひよりが手を伸ばした、その時だった。
「ごめんね、ひよりちゃん。ちょっと、眠っててくれる?」
──バサッ。
頭の後ろに鈍い衝撃。世界がふわりと傾いた。
視界が霞む中、見えたのは、誰かのフードの裾と──
うっすらと香る、柑橘系の香水の匂い。
【7】消えたひより
「ひよりが……いない?」
異変に気づいたのはユウナだった。
出番の終わったひよりを探して校舎を一回りしたが、どこにも見つからない。
「ステージ横にもいない。控え室も……理央、知ってる?」
その報告を受けた理央の表情が、一瞬で変わる。
「GPS……いや、電波がジャミングされてる。これは──わざとだ」
彼の声が低く、冷たく響く。
その瞬間、マヒルも走っていた。
「理央! あんた、何か知ってるね?」
「多分……“あの人”だ。俺の兄──凛翔(りんと)だよ」
【8】兄の告白
場所は旧校舎の最上階。
閉ざされた資料室の中で、目を覚ましたひよりの前に立っていたのは、理央によく似た青年だった。
「初めまして、ひよりちゃん。俺は理央の兄、凛翔。……君の“記憶”に、ちょっと興味があってね」
凛翔の目は笑っていたが、その奥にあるのは、まるで感情のない光。
「君は、“瞬間記憶”の持ち主だろう? 本来なら一度見た景色を忘れない。けれど、それを失った。だから気づいたんだよ。君の記憶は、単なる映像じゃない。“感情”が鍵になってるって」
「あなた……なにを……」
「知りたいんだ。“感情で書き換えられる記憶”の正体を。君がその実験体になってくれれば、俺は──」
「やめてくださいっ!」
叫んだその瞬間、ドアが破られる音が響いた。
【9】理央の選択
「離れろ、兄さん──!」
駆けつけたのは、理央だった。
その手には、ひよりの描いたスケッチブックが握られていた。
「……その絵は?」
「ひよりが描いた、“未来”の絵だよ」
そこには、文化祭を笑って歩く自分とひよりの姿があった。
「君の理論じゃ、こんな“感情の未来図”は描けない。彼女の記憶は、実験データじゃない。心で繋がった、俺たちの証だ」
理央の言葉に、凛翔の笑顔が崩れる。
「感情なんて、壊れるんだよ。……俺の記憶も、あのときの想いも、全部消されたんだ」
「だったら俺が、あのときの兄さんの記憶を証明する。感情があった兄さんを、俺が覚えてる」
凛翔の手が震えた。
「やめてくれ、理央……そんな顔で言うな……!」
そのまま、兄はその場に崩れ落ちた。
【10】手を伸ばす未来へ
ひよりが駆け寄り、理央に抱きつく。
「ありがとう……わたし、ちゃんと覚えてるよ。あなたのこと。怖かったけど……あなたが来てくれるって、ずっと信じてた」
「……遅れてごめん。でも、絶対に間に合うって、信じてた」
ふたりの手が、しっかりと繋がれる。
その時、ひよりは初めて、記憶ではなく“感情”で、
心から理央を抱きしめたいと思った。
【11】戻る場所
日が傾き、夕陽が校舎を朱く染める頃。
旧校舎から戻った理央とひよりは、文化祭のラストイベント直前の中庭に姿を現した。
「ひよりっ……!」
最初に駆け寄ったのはユウナだった。
泣き出しそうな顔で、強く手を握る。
「……無事で、よかった……!」
「ごめんね、心配かけて……でも、わたし、もう大丈夫」
マヒルとこよみも次々に駆け寄り、自然とみんなが囲むように立った。
「文化祭、まだ終わってないよね?」
ひよりの言葉に、マヒルがニヤリと笑う。
「……あんた、主役だってこと、ちゃんと自覚しな」
【12】プロポーズは“手書き”で
中庭の特設ステージでは、ラストセレモニーが始まろうとしていた。
その中で、理央がマイクを持ち、唐突に壇上へ上がる。
「みんな、今日は最高の文化祭をありがとう。……その上で、少しだけ時間をもらえますか」
会場がざわつく中、彼は、ひよりの方を向いた。
「ひより──俺は、君と出会って、記憶の意味が変わった。
データでも映像でもない、“心”が人を繋いでるって、教えてくれたのは君だ」
彼は制服のポケットから、手紙を取り出す。
「手紙って、デジタルより不便だけど……感情が残るから。俺、これ書くの、めっちゃ時間かかったんだ」
照れたように笑いながら、手紙を読む。
『ひよりへ。
君の記憶がなくなっても、俺の中に君の全部が残ってる。
笑った顔、怒った顔、泣きそうなときの、困ったような眉。
君の全部が、俺の“記憶”で、俺の“未来”だ。
だから、これからは一緒に、記憶を作っていこう。
君が忘れても、俺が覚えてるから。
俺が忘れたら、君が思い出させて。
──これは、お願いであり、プロポーズです』
沈黙。
そして、満場の拍手。
ひよりは泣きながら、壇上へ駆け寄った。
「うん……わたしも、そうしたい。これからは、あなたと“記憶”を育てていく」
ふたりの手が、静かに繋がれた。
【13】仲間たちの小さな告白
舞台裏では、それぞれの“答え”も芽生えていた。
こよみはユウナにそっと囁く。
「ねえ、もし誰かに好きって言われたら、どうする?」
「え、誰に……?」
「たとえば、“こういう子”っていう仮定で──」
「……先輩、それ、“仮定”になってません」
こよみは照れ笑いをしながら言った。
「じゃあ、いつかちゃんと言うから、その時はちゃんと聞いてよ」
マヒルはひよりのステージを見つめながら、独り言のように呟いた。
「恋って、結構めんどくさい。でも、あんな風に泣けるなら……悪くない」
隣にいたサブリーダーの悠太がぼそりと。
「……俺はずっと、マヒルのツンデレに振り回されてるけどな」
「何か言った?」
「な、なんでもありませんッ」
【14】そして未来へ
文化祭が終わり、校舎に夜の気配が満ちていく。
理央とひよりは並んで歩きながら、校庭を見渡していた。
「……ちゃんと、覚えてる?」
「うん。今日のこの空、風の匂い、みんなの顔──すべて、わたしの心に焼きついてるよ」
理央はそっと、ひよりの手を握る。
「この先、何があっても、俺たちの記憶は、誰にも壊せない」
「……うん。だって、わたしたちは、お互いの“心の記録”だから」
そして、ふたりの影が、ゆっくりと重なった。



