【1】“空白”から始まる朝
秋の風が、窓をかすかに揺らす朝。
制服のリボンを結びながら、ひよりは胸に手を当てた。
あの日以来、理央の顔を見るたびに、どこか胸がざわついていた。
彼の名前も、彼との出来事も。
思い出せない記憶の断片は、まるで雨の日の窓ガラスのように、曇って見えなかった。
けれど──
「でも、きっと私は……彼のことを好きだった」
根拠もなく、確信だけがそこにあった。
【2】彼の笑顔
放課後。図書室で再び理央と向き合った。
「ひより……今日は、君に“ひとつだけ”お願いがある」
「……なに?」
彼は深呼吸をして言った。
「俺と、友達からやり直してくれないか?」
ひよりは驚いた表情で瞬きをした。
それは“好き”だと伝えた彼からの言葉にしては、遠回りすぎる提案だった。
でも、理央の目は本気だった。
「もう一度、君に恋をしたい。最初から、全部。嘘じゃない“今”を、君に渡したいから」
ひよりは黙って、少し笑った。
「……変な人。でも、うん。わたし、あなたのこと、もっと知りたいと思ってた」
その笑顔に、理央は少しだけ涙ぐんだ。
“好き”は消されても、“心”はまだ彼女の中で生きている──
そう信じられる瞬間だった。
【3】友達のふり、恋人のつもり
その日から始まった、“友達”としての毎日。
理央はひよりとお弁当を一緒に食べたり、帰り道に他愛ない話をしたり、まるで初恋のような時間を過ごしていた。
けれど内心では、彼の心は張り裂けそうだった。
(今、手をつなげたら。今、名前を呼んでくれたら──)
けれど、それを言葉にすれば、壊れてしまいそうな距離だった。
一方で、ひよりの中でも変化が起きていた。
理央のちょっとした仕草、声のトーン、頬の赤み。
なぜか胸がドキッとする。
(これは……どんな、感情?)
その答えは、心のどこかで、もう知っていた。
【4】それは、恋の再生
ある日、二人は放課後の音楽室で偶然出会った。
理央はピアノの前に座り、鍵盤に触れていた。
「……理央くん、ピアノ弾けるんだ」
「うん、実はちょっとだけ」
理央が奏でるのは、優しいメロディ。
どこか切なくて、でも懐かしい音だった。
「この曲……なんて曲?」
「“ひよりのテーマ”って勝手に名前つけてる」
「え……?」
「君の笑顔、君の泣き顔、君の全部が、曲になったらいいのにって、そう思って作った」
沈黙。心臓が早鐘を打つ音だけが、静かな音楽室に響いていた。
「……そんなこと、言われたら……また好きになっちゃうよ」
ひよりが、ぽつりとつぶやいた。
その言葉は、彼女自身も驚くほど、自然に出たものだった。
【5】本当の気持ち
その夜。ひよりは夢を見た。
そこには、過去の自分がいた。
理央に手を引かれ、笑っている。
泣いて、怒って、笑って、また泣いて……それでも、ずっと彼と一緒にいた。
その“想い”が、心の奥から溢れ出してくる。
──私は、彼が好きだった。
──そして、今もまた、彼を好きになってる。
【6】恋が再び始まる
朝。ひよりは学校の廊下で理央を見つけるなり、走っていった。
「理央くん!!」
彼が振り向く。
その顔を見て、ひよりは言った。
「わたし……もう一度、あなたに恋してもいい?」
理央は一瞬呆然として、すぐに笑った。
「ううん、もう君は十分に恋してると思うよ」
その瞬間、ひよりは思わず笑って、涙が溢れた。
記憶が消えても、恋は消えなかった。
むしろ、新しく芽生えた“今の好き”は、どんな記憶よりも強く、美しかった。



