【1】それは、静かに始まった



 文化祭の後夜祭が終わった夜、ひよりはひとつの夢を見た。

 真っ白な部屋の中で、彼女は一人だった。
 壁には何もない。窓も、扉も。
 ただ、頭の中に、何かが――“抜けていく”ような感覚だけが残っていた。

 誰かの声がした。

 《感情記憶データ、解除します》

 「え……誰……?」

 《“好き”というコードから、対象の記憶を剥離開始》

 「やめて……やめて……っ!」

 叫んだその瞬間、目を覚ました。
 汗でシャツが肌に張りついている。呼吸が浅く、鼓動は早い。

 なのに、何かが――足りない。

 「……理央、くん……?」

 その名前を口にした瞬間、ひよりは自分の中に違和感を覚えた。
 “彼”に関する記憶が、どこか曖昧になっていた。





【2】消えた想い


 次の日。学校で顔を合わせた理央に、ひよりは“いつも通り”の笑顔で話しかけた。
 けれど、その目は少しだけ、よそよそしかった。

 「理央くん、昨日の夜、なにか言ってたっけ?」
 「え?」
 「えっと……ダンスのとき、何か大事なこと話してた気がするんだけど……ごめん、思い出せなくて」

 理央の心臓が音を立てて崩れていく。
 (まさか、本当に……“好き”の記憶が……消されてる?)

 試しに彼は、そっと手を伸ばし、ひよりの手に触れようとした。
 すると、ひよりは一瞬、微かにその手を引いた。

 「……あれ、ごめん。ちょっと、びっくりしちゃって」

 それは拒絶ではなかった。けれど、以前のひよりなら、戸惑うことなく握り返してくれたはずだ。

 理央の中で、確信が生まれる。
 (ひよりの“恋”の感情記憶が、本当に、消されはじめている)




【3】理央の孤独

 放課後。理央は情報室にこもり、すべての端末を接続した。
 ネットワークの奥深く、“あの組織”の影に手を伸ばす。

 《記憶干渉ウイルス型:α-LuvCode》
 《対象:ヒヨリ-03 感情リンク“恋愛”遮断進行中》

 「やっぱり、来てる……っ!」

 指が震える。心臓も痛いほどに脈打つ。
 (恋をしてる相手が、自分のことを忘れていくなんて、そんなの、耐えられるわけない)

 彼は、一瞬迷った。
 ──もし、自分の記憶と存在が、ひよりの心を救うために邪魔なら、消えてもいいのではないか、と。

 でも、思い出した。
 彼女があのとき、言ってくれた言葉を。

 『私は、自分の記憶を信じたい。誰かに操作されても、最後に選ぶのは、自分の気持ちだって』

 (だからこそ……守らなきゃ。俺が)




【4】仲間の声


 理央の異変に気づいたのは、マヒルだった。
 「ちょっと理央。顔、死んでる。何があったの?」

 事情を話すと、マヒルはぐっと拳を握る。

 「なにそれ……最低じゃん。ひよりちゃんの“大事な気持ち”を奪おうとするなんてさ」

 「でも、どうしたら……俺、怖いんだ。今、告白しても、“好き”の意味が伝わらない気がして……」

 「でも理央、それでも言わなきゃダメだよ。言葉は、記憶じゃない。心に届くって、信じなよ」

 その言葉に、理央は初めて涙を堪えた。




【5】もう一度、“恋”を届ける

 その夜。ひよりのスマホに、一通のメールが届いた。

 ──“明日、放課後、図書室の奥で待ってる。君に伝えたいことがある”──

 放課後。
 静まり返った図書室の隅、理央が一人立っていた。
 やがてひよりが来る。表情はどこか不安そうだった。

 「ねぇ……ごめん。理央くんのこと、ちゃんと思い出せないの。でも……胸が痛くなるの。君を見てると」

 「それは、きっと“好きだった”記憶が、心に残ってる証拠だよ」

 「私……君に何か、大切なことを言った気がするの。でも、それが、思い出せないの」

 「言ってくれた。『好き』って」

 「……え……?」

 「それが嘘かどうかなんて、関係ない。俺は今でも、君のことが好きだ。たとえ記憶が消えても、何度でも好きになる」

 しばらく沈黙があった。
 そして、ひよりの瞳にぽろっと涙がこぼれた。

 「……その言葉、今、ちゃんと届いたよ。胸が、すごく熱くて、あたたかくなったから……」

 理央はそっと、彼女の手を取った。
 今度は、彼女も離さなかった。