【1】“瞬間記憶”なんて、誰の役にも立たないと思ってた

 人の顔って、何秒で忘れると思う?

 わたし――蒼井ひよりは、小さいころから人の顔や声、しぐさ、教室の隅にある掲示物や黒板の字まで、まるごと一瞬で覚えてしまう。いわゆる“瞬間記憶”ってやつだ。

 でも、だからって得することなんてほとんどない。

 だって、それをどう使ったらいいか、誰も教えてくれなかったから。

 むしろ、小学生のときはよく言われた。

 「先生の言ったこと、全部覚えてるとか変だよね」
 「なんか、暗記マシーンみたい」
 「ずるい。天才ぶってる」

 だからわたしは、「すごいね」と言われるより先に、「気持ち悪い」と言われることのほうが多かった。

 ――それ以来、目立たないように、記憶しても黙っているようになった。

 頭の中にぐるぐる残る「完璧な記録」を、あえて“ただの記憶”としてしまう。
 それが、わたしなりの「普通」でいるためのルールだった。




【2】転校生の顔を、ひと目で忘れなかった理由

 中学2年の春。

 教室のドアが開いて、先生が笑顔で言った。

「今日から、転校生が来ます。みんな仲良くしてあげてくださいね」

 ……出た、転校生イベント。

 新学期、こういうのって盛り上がるけど、あまり得意じゃない。どうせまた、「どこ出身?」とか「部活は?」とか、テンプレ質問大会になるんだろうなぁ、なんて思いながら、わたしはチラッと前を見る。

 でも、目が合った瞬間、思わず息をのんだ。

 そこにいたのは、ひと目で“ただ者じゃない”ってわかる男の子だった。

 髪はきれいな黒で、制服はぴしっと着こなし、立ち姿がまるでドラマの登場人物みたいに整っている。
 だけど一番目を引いたのは、その目――冷たいようで、どこか退屈そうで、全部を見透かしてるような、深い黒。

「――綾瀬理央。よろしく」

 それだけ言って、彼は淡々と席についた。

 拍手もそこそこに、まわりの女子がざわめく。

「え、イケメンじゃない?」
「なんか、俳優みたい」
「理央くんって、名字もカッコよ……!」

 あっという間に彼は“転校生”から“学園の注目男子”になった。

 でも、わたしはその時、
 (……この人、どこか危ない)
 そう、思っていた。

 ただの“顔がいい転校生”じゃない。何か、ぜったいに裏がある。

 この瞬間、わたしの“記憶スイッチ”が久々に強制的にオンになったのを、自分でもはっきり感じた。


【3】図書室の「君、覚えてるでしょ?」

 理央くんと話したのは、その週の水曜日。
 午後の授業が終わって、わたしはいつものように図書室で本を借りようとしていた。

 すると――

「……蒼井ひより、さんだよね」

 静かな声が、突然耳元に落ちた。

「うわっ……!」

 本を抱えて振り返ると、そこにいたのは、他でもない理央くんだった。

(なんで名前、知ってるの!?)

 内心ではパニック。でも、顔には出さないようにした。

「……そうだけど?」

 彼はわたしの反応に構わず、本棚に視線を戻す。

「僕、観察するの、得意なんだ」

 それだけで、彼の中にある“只者じゃない感”が、またわたしの警戒心を刺激した。

 そのとき、彼が何気なく言った。

「さっきの授業の黒板。社会の先生が最後に板書した年号、言える?」

「え? ……1、8、7、1年。岩倉使節団の派遣」

 つい口に出して、ハッとした。

(しまった……!)

 理央くんは、口元だけで笑った。

「やっぱり、そうか。君、“瞬間記憶”の持ち主だね」

「……なんで、そんなこと」

「さっき、席から黒板消すタイミング、全部見てた。先生が消しても、君だけノートを見てなかった」

「…………」

 まるで、わたしの“能力”を見透かされたようで、どきりとした。




【4】「隠してる理由、あるよね?」

「そんなの……ただの記憶力で」

「違う。あれは“覚えようとしてる”顔じゃなかった。……もう、頭の中に入ってるって顔だったよ」

 彼は、まるで医者みたいに淡々と、わたしの“中身”を分析してくる。

「でも……なんでそんなこと聞くの?」

 わたしが言うと、理央くんは一瞬だけ言葉を止めた。

 そして――

「僕も、少しだけ普通じゃないことができる」

「え?」

「だからわかるんだ。……“隠す側の気持ち”」

 その言葉に、少しだけ胸が熱くなった。
 今まで、“隠してるのが悪い”って思われることはあっても、
 “隠してる気持ちを理解する”って言ってもらえたのは、初めてだった。



【5】「綾瀬理央」の本当の姿?

 理央くんは、教室では静かで、そっけない。

 でも――放課後の図書室で、ふと彼が見せたノートPCの画面を見て、わたしは目を見張った。

(……これ、プログラム? しかも、何このスピード)

 スクリーンには、わたしが見たことのないコードや数字、ロック解除の画面が次々に現れては消えていく。

「なに、これ……」

「内緒だよ」

 理央くんはそう言って、パソコンをぱたんと閉じた。

「でも――君なら、見られても構わないと思った」

「どういうこと……?」

「僕は、正体を隠してる。だけど、君の記憶には、それが刻まれた。つまり――もう、君は“共犯”ってことだね」

「えっ、ええええ!? 待って! なにその流れ!?」

「冗談だよ」

 初めて、理央くんが少しだけ、笑った気がした。



【6】“変わり者”は、ひとりじゃない

 その夜、家に帰っても、ずっと心がざわざわしていた。

(綾瀬理央……あの人、なんなんだろう)

 教室では目立つけど、近寄りがたくて。
 でも放課後の図書室では、鋭くて、優しくて、秘密を持っていて。

 そして、なにより――

「君の気持ち、わかるよ」

 そのひと言が、やっぱり忘れられなかった。

 記憶力を気持ち悪がられたことはあっても、
 それを見抜いた上で、“理解”してくれた人なんて初めてだったから。

 なんだろう。
 胸の奥に、小さな火が灯ったような。
 気づかないふりをしてきた「自分の力」に、やっと少しだけ、向き合える気がした。

(この出会い、たぶん、特別だ――)