紫陽花の憂鬱

 ゆっくりと目を開けると、ここは自分の家ではないということが少しずつわかる。匂いも視界も何もかもが違う。そして覚醒する意識の中ではっきりとわかるのは、自分はとても強い力で抱きしめられているということだった。
 抱き枕を抱きしめるようにぎゅっと、日向は眠ったまま紫月のことを抱きしめていた。紫月は少しだけ頭を動かして上を見ると、日向はやはりまだ眠っている。

(…力、強いんだな…知らなかった、こんなに力があるってことも…)

 強い力を感じさせられているのに怖くはなくて、むしろ何か不安や気になることがあってこうなっているのか、そんなことが気になった。腕ごと抱きしめられているため、日向の方に手を伸ばすこともできず、紫月はただじっと日向の寝顔を見つめた。

「ん……。」

 うっすらと日向の片目が開いて、そのまま両目が開くかと思いきやそのまま再び閉じられた。紫月が少しだけ体をよじると、ぼんやりとした表情の日向が紫月を見た。目は開いているが焦点は定まっていないように見える。

「…紫月…さん…?…ふふ…紫月さんだ…本物、みたい…。」

 紫月を抱きしめたまま、日向は紫月の肩に軽く頭を乗せた。

「…いい夢…。」

 日向の腕が強まった。紫月の首筋には日向が深く呼吸する音と、吐息が当たった。初めての感覚がくすぐったくて恥ずかしい。

「れ、蓮く…。」
「…え…?」

 日向の頭が紫月の肩を離れ、ゆっくりと目が見開かれる。少しずつ意識がはっきりとしてきた日向と目が合うと、紫月の顔の赤さに気付いた日向の顔も一気に赤く染まった。

「っ…ごめん!てっきり夢だと…!」
「ゆ、夢じゃないです。…夢だったら、ちょっと寂しい、し。」

 紫月がそう呟くと、日向は優しく紫月を抱き寄せた。

「…本物。本物の紫月さんが泊まってくれたんだもんね。…実は俺、朝弱くて。」
「そ、そうなの?」
「…そうなんだよ。だからアラームは5分おきに10回くらい鳴らしてやっとなの。…だから、寝ぼけてて、ごめん。」
「…ううん。むしろその…腕とか痛くないかなって気になってたの。その…朝、起きたらね。」
「うん。」
「…抱きしめて…もらってた、…から。」

 紫月は視線を日向の目には合わせられなくて、首のあたりを見ながらぼそぼそと何とか口にする。そんな姿を見た日向は少しだけ腕の力を強めた。

「…離してあげられなくてごめんね。…ずっと抱きしめたいって思ってたから、…離せなかったみたいだね。…よく眠れた?大丈夫?」
「…うん、ぐっすりだったよ。…腕は、大丈夫?」
「うん。…とはいえ、無意識って怖いね。俺、本当に何するかわかんない…他にはなかった?」
「他?」
「うん。…寝てる間の俺は多分、…その、歯止めがきかなくなってるっていうか…今更心配になってきたから…もし何かやらかしてたら…謝る。」

 日向が深刻な顔をしているのが少しおかしくて、紫月はくすくすと笑った。

「え?」
「…何も。…っていうのは変かもしれないけど、…あったかくて、優しい目覚めで、蓮くんの言うようなやらかすってこと、なかったよ。こんなに力が強かったんだ、本当はって少し思っただけ。…抱きしめること一つとっても、加減してくれてたんだね。…本当は、強く抱きしめたかった…のかな…って。私が慣れたり、緊張しないですむくらいになったりするの、待ってくれてた?」

 紫月が問いかけると、日向は静かに目を閉じて首を横に振った。

「…待った方がいいんだろうなぁって思って、でも待てなかった、が正しいような気がする。…ごめんね、痛くなかった?」
「ぜ、全然!大丈夫!」
「…良かった。紫月さん、細いからあんまり強い力で抱きしめるとすぐ苦しくなっちゃうと思って…。」
「…あのね、蓮くん。」
「うん。」

 紫月は日向のスウェットの胸元をきゅっと掴んだ。

「…本当に苦しくてきつかったらね、ちゃんと言えるよ、蓮くんには。…今日のは、びっくりしただけ。そのあとは、…寝顔、見てました。」
「え、えぇ!?大丈夫だった?やばい顔とかじゃなかった?」
「うん。…ちょっと気が抜けてるのかなって感じの、可愛い、感じ、…だった、かな。」
「…絶対可愛くはないと思うけど、…まぁやばい顔じゃなかったんならいっか…。」
「あ、えっと、その、…強くなっちゃったのは…何か、不安なこととかがあったとかでは、ない?」
「え?」

 自分だったらどんな時に強く抱きしめたくなるだろうかと考えて、何か不安があるときや怖いときにぬいぐるみを抱きしめたことを思い出す。強く抱きしめたくなるほどの何かを与えた原因が自分だと困る。そう思って、少しの不安を抱えながら紫月は問いかけた。

「紫月さんは不安なことがあると抱きしめたくなるの?」
「…そ、そうだね。って、私のことじゃなくて、蓮くんのことだよ!」
「そっか、ごめんごめん。…そうだな…多分、全然紫月さんが考えているようなことじゃなくてね。ただ、紫月さんがそこにいて、好き勝手していいってなったら強くなっちゃうってだけだよ。言ったでしょ?紫月さんがいいなら、ずっと抱きしめていたいし、隣に座っていたいし、くっついていたいんだよ。そういうのが出たってだけ。今はもうちゃんと起きてるので、加減もできるし紫月さんのペースも見れるよ。大丈夫。」
「…それは、我慢…とは違う?」
「うっ…難しいところ、刺してきたね紫月さん。」

 一瞬困ったように笑ってから、日向はそっと紫月の額に自分の額を重ねた。

「我慢と完全に違う、とは言い切れないけど…でもね、紫月さんのペースを大きく崩したいわけじゃないから、…寝てるときの自分は制御できないけど、起きてるときは多分少し我慢するくらいで丁度いいんだよ。だってさ、ずーっとくっついてたらデートもできないでしょ?」
「それはっ…そうだけどっ…。」
「紫月さんが少しずつ慣れてきたなって思ったら、もっと色々するかも。今もこの距離でこうやって、…ちょっと顔は赤いけど、話せてる。」

 日向の指がツンと紫月の頬に触れた。

「紫月さんが俺に対してしたいことは何をしてくれてもいいけど、紫月さんが無理しないで傍にいてくれることが一番大事だからね。だから今は…。」

 日向の腕が再び紫月の体ごとぎゅっと優しく抱きしめる。紫月もそれに合わせて日向の背に自分の腕を回した。

「ただこうやって抱きしめあったまま、もうちょっと朝のごろごろ、しててもいい?」
「…お腹、空いてない?」
「…ちょっとは空いてるけど、まだ起きたくないよ~…だって紫月さんとくっついてられる朝なんだよ…?」

 少し子供っぽい言い方に体の力が抜ける。会社でも、今までの月日の中でもこんな甘えるような言い方で話す日向のことは見たことがない。昨日からずっと、知らない日向の顔ばかり見つけている。その一つ一つが大切で、この表情を見ることができる自分になれたことが嬉しいと思える。

「…ご飯食べてから、またごろごろする、…でもいいんだよ?」
「…今の言い方何…?…可愛い。」
「へっ!?」
「…あと10分だけ延長~そしたら起きるし、ご飯も作る…。」
「ご、ご飯私、やるよ。だから蓮くん、ご飯作ってる間、ごろごろしていられるよ?」
「…一人でごろごろはいつでもできるけど、紫月さんと一緒のことは紫月さんが居る時しかできないし…だからご飯を紫月さんだけに作らせるとかはないです、なし。」
「ないの?」
「ないよ。なーい。」

 日向の腕の力が少しだけ強まって、紫月の耳元に日向の唇が近付いた。

「…離してあげないから、紫月さんも一緒にもうちょっと…だらっとしよ?」

 耳元をくすぐった吐息と声に、声にならない声をあげそうになった紫月は行き場のない気持ちを日向の背を少しだけ掴むことでどうにかしようとした。

「…紫月さんからぎゅってしてくれるのも可愛い。…はぁー…やっぱりまだ全然頭が起きてないかも、俺。可愛いでいっぱい。可愛いしかない。」
「…お、起きて、お願い。」
「んー…起きれないかも。」