紫陽花の憂鬱

 3週間が経ち、紫月の足はすっかり元通りになっていた。快気祝いに今日はパンが食べ放題のハンバーグの美味しい店に来ていた。

「本当にもう大丈夫なの?」
「えっと、うん。もう本当に少しも痛くないよ。」
「…ちゃんと治って、よかった。」

 呟くように落ちた日向の言葉に、紫月は微笑みを返す。最近はこうやってふっと日向の前で気持ちが緩まる自分を感じていた。しかし紫月がそうすると目は合うものの一瞬困ったような表情を日向が浮かべるようになったことが少し気がかりでもある。ただ、素直にそのことは聞けずに今日も静かに、その気持ちを沈めていく。

「あの…それで…日向くんにはとてもお世話になったので…」

 足が治ったのならご飯に行きたいと日向に言われてやってきた今日だった。紫月は両太ももの上に置いた手をぐっと握った。今日はどうしても言わないといけないことがある。
 
「あんまりお世話してないけど…まぁうん、それで?」
「お礼を…したくて…。」
「お礼?」

 紫月は頷いた。日向の言葉を反芻し、本当にこれでお礼になるのかという不安は拭えないまま、それでも一歩踏み出したくてその言葉を口にした。

「お出かけ、しませんか。」

 一瞬の沈黙の後に、日向が小さく「え?」と呟いた。

「あのっ…すぐにってことじゃなくて予定が合えばで全然…!もちろん、日向くんが嫌じゃなければなんだけど…」

 日向と目が合えば、恥ずかしさに襲われたのは紫月の方だった。思わず俯いてしまう。誘うということはこんなにも勇気が要ることで、不安や緊張で心臓が痛くなることなのだと知る。こんなことを何気なく何度もしてくれていた日向は改めてすごいのだとそんなことも考えながら、紫月の心臓はとてつもない速さで鳴っていた。

「…紫月さんが言ってくれたの、初めてだね。…嬉しい。」

 日向の柔らかくて優しい声に顔を上げると、いつもよりもほんのりと顔が赤く見える日向がそこにはいた。

「紫月さんの時間をもらうことがお礼になるって、ちゃんと覚えててくれたんだ。」
「…覚えては…いたけどその…そんなのでいいのかなって自信がなくて。…でも日向くんは嘘を吐かないから、…だから、言いました。」
「…ありがとう。どこ行こうか?一緒に考える?」

 紫月はコクコクと何度も頷いた。どこを提案したらいいのかはわからなかったし、正解も出せそうになかった。『誘う』ことが第一目標で、その先までは考えなきゃとは思うものの、これだと思えるものを見つけるには至らなかったというのが正直なところだった。

「秋だから…食べ物が美味しいね。季節限定とかもいっぱいある。あとは…うーん、何だろう。」
「秋…おいも、かぼちゃ…紅葉?」
「紅葉!いいね!ちょっと遠出してみる?」
「遠出?」

 日向が頷いた。

「車は実家に置いてきちゃったからレンタカーになるけど、車あれば結構遠くまで行けるし。今見頃を迎えてるところに合わせて場所は変えられるし。有名なところじゃなければそこまで混んでないと思うから、ちょっと調べてみる必要はあるけど。」
「調べるの、やります!」
「俺も調べるよ。じゃあ、方向性は紅葉見に行くってことでいい?あと、ちょっと食べ歩きしたいよね、せっかくなら。秋のスイーツとかさ。」
「食べ…たいな、私も。」
「うん。食べよう食べよう。」

 1人で考えても全く何も浮かばなかったのに、日向と話すと5分もたたずにポンポンと決まっていく。思考回路も口も重たくなくて、むしろ楽しくて、気付けば笑顔になる。

「…日向くんはすごいね。」
「ん?何が?」
「…私は、その…自分から何かしようって誘うことにもすごく勇気が必要で、すぐはできなくて…どこに行くかも1人じゃ全然浮かばなくて。でも日向くんはいつも誘ってくれるし、こうやって日向くんと話すだけですぐに案が出てきちゃう。…すごい力だよ、日向くんがもってるものって。」

 紫月がそう言うと、日向は笑みを深くした。

「…そんなにいっぱいの勇気使ってくれちゃったの?じゃあここからは俺が少し頑張らないと、紫月さんの勇気に見合わないね。」
「あっ、えっとだ、だめだよ!日向くんはいっぱい頑張ったらだめです!」
「え、何で?」
「だってつりあいが取れなくなっちゃうから…。」

 ただでさえいつもたくさんのことをしているのは日向だ。紫月は今日、たった一回誘えただけなのだ。そのことへの引け目はある。

「取れてるよ。頑張りたい分だけ俺も頑張ってて、紫月さんもそうでしょ?だから丁度いいよ。」
「してることの量が…追いついてなくて…」
「思ってることの量でそれは追いついてるからさ、紫月さんの場合。あとね、一緒に何かをしたいって思ってもらえたことがね、…充分なんだよ。」

 珍しくその先が続かない日向を見て、紫月は再び自分の鼓動の音が強くなるのを感じる。時折、日向の言葉が落ちると心がざわつく。自分が何かをしてしまったのではないかと不安になって。
 しばらくして日向はゆっくりと口を開いた。

「少し調べてから日程決めよっか。今日はまず、紫月さんの快気祝いなんだからいっぱい食べてもらわないと!」

 日向の声のトーンがいつも通りのものに戻って、また少し紫月の胸には一つ、しこりのような気になる『何か』が残る。それもまた聞けなくて、紫月は笑みを浮かべてやり過ごした。