紫陽花の憂鬱

 完全に西村が見えなくなって、紫月は深く息を吐いた。そしてふと自分の手元を見ると無意識に掴んでいた日向の裾に気付いてパッと離した。

「ご、ごめんなさい、私っ…。」
「紫月さん…!」

 ほぼ同時に発せられた二人の言葉が混ざる。そんな中、くるりと体の向きを変えた日向の目はぱあっと輝いていた。

「ん?」
「あっ…えっと、その…裾を思わず引いちゃってたみたいで…ごめんなさい。」
「全然いいよ。それよりも…。」

 日向の目の輝きに負けないように、紫月もぐっと1度頷いた。

「い…言えたっ…わ、私にも言えたよ…日向くんみたいに。」
「すごかった!…めちゃくちゃかっこよかった。言えて…よかったね、紫月さん。」

 ふわりと日向に微笑まれると嬉しいのに、なんだか目が熱くなってくる。まだ心臓はドクドクと音がわかるくらいの速さで動いている。

「…うん、…うん…!よ、よかった…。頑張れた、私でも。」

 紫月がそう言うと、日向はさらに笑みを深くした。

「…ずっと頑張ってるよ、紫月さん。」
「…あ、あの…ありがとう…。日向くんが…いたから、言えた。日向くんの背中があったから、…私は立てた。日向くんのおかげだよ。」

 紫月にも笑みが零れた。言葉がきちんとまとまった状態だったわけではなかった。それでも日向の背中が目の前にあって、守られていることがわかったから言い続けられた。

「…俺は立ってただけだよ。言葉をまとめたのも言い切ったのも紫月さん。紫月さんはね、ちゃんと言える人なんだよ。」
「…それは…っ…聞いてもらえるって…知っちゃったから…だよ…。」
「え…?」

 自分の言葉がすげなく切り捨てられ、聞いてもらえないことが普通になってから、一体どれだけの時間が経っていて、いつから自分は思ったことを口にすることができなくなったのかはもうはっきりとは思い出せない。それでも、少なくともここ最近の自分はそうではなかったことだけは明確にわかる。

「…日向くんは、いつでも待ってくれた。ちゃんと聞いてくれて、言葉に詰まったときは…ちょっと補ってくれて…私は最後まで話ができた。…日向くんには聞いてもらえるって知っちゃった…から、…話ができないことは苦しいことに変わったの。」

 紫月はまっすぐに日向を見つめてそう言った。日向の目がゆっくりと見開かれ、そして泳いだ。口元を押さえて紫月から目を逸らす日向は、今までに紫月が見たことのないものだった。

「っ…あの、ごめんなさい、私…何か変なこと…?」
「あー…いや、全然。全然変なことは言ってない…んだけど、ごめん、今ちょっと…顔が多分、…俺が変になっちゃってて…。」

 日向はそのまま俯いた。顔が変というのはどういう意味なのだろう。紫月は泣き顔も目の腫れた顔も今までに見せてしまっているが、日向の崩れた顔というのは見たことがない。だから想像もできなくて、紫月はおそるおそる声を掛けるしかなかった。

「…あの、大丈夫…?」
「…うん。あ、紫月さんのせいじゃないからね、全然。普通に俺の問題だから。」

* * *

 咳払いをしてから自分の両頬を一度強めに叩いてから、日向は紫月を見つめた。

(…自分に都合よく受け取りすぎ。紫月さんは感謝を述べているだけ。それ以上の気持ちは何一つ、話していない。)

「日向くん…?」

 紫月の戸惑った声に日向の胸が少しだけざわついた。せっかく元彼を自分の言葉で振り切ることができたのだ。ここはすっきりとした気持ちを紫月にもってもらいたいのに、自分の戸惑いで余計な気遣いをさせて紫月の心を煩わせたくはなかった。
 紫月が一歩踏み出した音がした。少しだけ縮んだ距離に、日向の方には緊張も走る。気まずくなりたくなくて、日向は口を開いた。

「ごめん、変なところ見せて。…もう大丈夫だから。…よしっ、じゃあ紫月さん、ひとまずやり切った記念に手、出して?」
「手?」

 目の前の紫月は、自分の手を見つめながらきょとんとしている。そんな紫月に向かって日向は、両手の掌を向けた。指先は上に向けている。

「紫月さんが頑張って一つ、終わらせたからさ、ハイタッチしよ。やりきった感、出ない?」
「…出る、かも?」

(かも、の言い方が可愛いなんて、思ってる場合じゃないんだって。)

 心の声がうるさい。しかしそれを全部包み隠さず紫月に言うことはできない。急かすことはしたくない。

「はい、じゃあ紫月さん、思いっきりどうぞ。」
「えっ?」

 紫月にしては珍しく少し大きな声に、日向は微笑んだ。段々と豊かな表情を見せてくれることが嬉しくて、そして積もっていく。確かに少しずつ、『気になる』だけではない感情が。

「ばちーんと音鳴るくらいじゃない?今日のすっきり度は。」
「で、できないよ!そんなに強くなんて!」

 紫月は顔の前で手を横にブンブンと振っている。おまけに顔も横に振るものだから小柄というわけでもないのに小動物のようにすら見える。

「遠慮しなくていいのに。ここは景気よく思いっきりやってほしいけど、でも紫月さんができそうな強さでいいよ。はい、どうぞ。」

 紫月は一度ごくりと息を飲んでから、日向の両手に静かにぴたりと手を合わせた。

「…ありがとう。今日一日、日向くんが居なかったら私、今こんな風に笑えてなかったと思う。」

(…あぁ、これはちょっと、ダメかもしれない。)

 急かさないように、焦らせないようにと何度も踏んできたブレーキがみしっと音を立ててヒビが入ってしまったようだった。気が付くと、紫月の左手を包んでしまっていた。

「…紫月さんが笑ってることが、…一番大事、だから。」

 これ以上はやりすぎになってしまう。そういう冷静さが完全になくなってしまったわけではなかった。すぐに手をパッと離して、そしてそのまま軽くパチンと音が鳴る程度に自分から両手を紫月のものと合わせた。

「このくらい勢いよくしないと、やっぱり音は鳴らないね。音鳴らないとハイタッチって感じ、出ないもんだね意外と。」

 空気を重くすることは憚られて、さっき握ってしまった手に意味を持たせてはいけない気がして、努めて明るく聞こえるように声を出したつもりだった。

「…日向くん、あの、…本当に私、その…変なことはしてない、かな?日向くんに対して…。」

(きっと紫月さんは『いつもと違う何か』を感じてる。だから揺れてる。…ダメだなぁ。紫月さんを不安にさせてどうするの。)

「してないしてない。紫月さんは頑張って、言いたいことを言って元彼を蹴散らしました。」
「け、蹴散らした?そ、そんなに…?」
「うん。そのくらい、俺としてはね衝撃でもあったよ。言えてよかった、本当に。あ、でも。」
「う、うん。何?」

 元彼がこの土日にまた来る可能性はほぼないと見ていいと思う。プライドが高そうな人はおそらくこれ以上縋りついては来ないだろう。それでも、心配だけはさせてほしい。

「それとは別で足の怪我は引き続き心配なので、明日も明後日も怪我の具合について連絡くれる?元彼がまた突撃してきたとしても連絡欲しいけど。あと外出が厳しくて食材がないとかさ、そういうのでも。」
「えっ…あ、で、でもその…これ以上日向くんの手を煩わせるわけには…。」

 日向は首を横に振った。手を煩わせているのではない。そこはちゃんと否定したかった。

「違うよ。好きで首を突っ込んでる、ってのが正しいの。だから、紫月さんからお昼になっても連絡来なかったら俺から連絡するし、ずーっと連絡なかったら何かあったのかもって心配で家まで来ちゃうかも。」
「お、お休みなのに!それはだめだよ!休まないと。」
「って思うなら、怪我の状態について我慢とかしないで教えてね。それが紫月さんがずっと気にしてる『お返し』になるから。あ、もちろん足が治ったら出かけようね。それもちゃんと『お返し』になってるよ。」

(『好き』で首を突っ込んでる、はギリギリセーフってことにしておいてほしい。)