紫陽花の憂鬱

 階段を上る音はどれだけ忍んだところで消せない。足音に反応したであろうその人は、日向の背後にいる紫月を見つけてすぐに口を開いた。

「紫月っ…!」

 すぐさま紫月と西村の間に左腕を上げて入ったのは日向だった。日向の眼光は鋭く、キッと西村を一度睨んだ。

「何、お前…何で男…?紫月、彼氏いたの?」

 西村の視線が、咎めるように鋭くなった。紫月はその視線から逃げるように少し下がり、日向の後ろに体の半分だけ隠しながら、首を横に振った。

「新しい彼氏じゃん、どう見たって。なんで昨日そう言わないんだよ?」
「…彼氏じゃないですからね、僕。そりゃ言わないですよ。」

 あくまで言葉遣いは丁寧だが、声は尖っていた。

「もし彼氏だったとしても、それを別れた元彼にいちいち言わないといけない義理だって、本来はありませんしね。」
「じゃあどいてくんない?俺は紫月に話があって…!」
「…私、は…返事を、…した、よ?」

 想像していたよりも怒っていて、言おうと思っていた気持ちがしぼんでしまいそうだった。日向の背中がなければ声を発することができなかったかもしれない。

「あんなんで納得できるわけないだろ?新しい彼氏がいないんだったら、俺とやり直すのだって別に紫月にとって悪い話じゃないと思うんだけど。」

 心を許せる人と一緒にいたいとは思うけれど、彼氏という存在が常に欲しいというわけではない。このずれを伝える言葉を頭の中で必死にかき集めるけれど、射抜くような目に負けて心臓の鼓動が速くなって焦る。何か言わなければ、この沈黙を壊さなければと。

「…紫月さん、大丈夫だよ。落ち着いて、ゆっくりで大丈夫。」
「…っ…あ、ありがとう…。」

 また日向の声で落ち着きが少しだけ戻ってくる。浅くなった呼吸も、いつも通りになる。酸素が脳まで行き渡れば、焦って生まれた熱もゆっくりと消えていって、少しずつ思考が回り出した。

「紫月さんと話がしたいんですよね?あなたは質問を投げた。だから紫月さんから返ってくるまで、あなたは待つんですよ。今ボールは紫月さんのところにあるので。待つのができないなら僕と雑談でもします?」
「お前と話すことなんかあるわけないだろ!」
「じゃあ黙って待っててください。会話はどちらかが主導権を握ってするものじゃないんですよ。営業の基本です。」

 日向の言葉に西村がぐっと押されて黙り込む。しばらく沈黙が3人を包んだ。言いたいことが少しだけ形になった紫月はさらに一歩踏み込んで、日向の背中に近付いた。日向のYシャツの手首の裾を、紫月は無意識に少しだけ掴む。そして、日向の背中から顔が見える程度には進み出て、おずおずと西村に視線を合わせた。

「…どうして、…私と、今…やり直したいのか、考えても考えても、わからなくて。」
「え?」

 紫月は日向のシャツを掴んでいない方の手をぐっと握った。

「西村くんがまた話したいって…言ってくれて…。嬉しい、よりも先に…驚いたの。何でなんだろうって…。」
「それは…別れてからやっぱり俺には紫月だなって思って…。」
「…どうして?」
「どうしてって、だから!」
「…だって私は、…何も変わってなくて、西村くんのこと、嫌な気持ちにさせてばかりいたのに…。変わってないよ、何も。西村くんは変わったねって言ったけど、変わってない…。」

 変わりたいとは思っている。だからこそ今、日向の力を借りてここに立っている。口が開けて、言いたいことを何とかまとめて話している。変わり終わってはいないのだ。変わろうとして、変わっている最中だったらいいな、くらいの心持ちでいるのに、西村から与えられる言葉ではもうすでに自分が今までの自分ではなくなっていて戸惑う。そうなっていないのに、と。

「…変わりたいけど、変われてない。…だから私は、やっぱり西村くんの言葉に上手に返せないの。…私、は…。」

 日向の裾を握る手にも力がこもった。

「西村くんの前だと、息が…もう、できない…。言葉も上手に受け取れないし、返せない。…だから、…食事に行くことも、デートに行くことも…できません。」

 呼吸のしやすい会話があることを知ってしまったから余計に、息苦しいのだ。そして息苦しさは恐怖になる。

「…西村くんが悪いんじゃない…。…私が、今、少しだけ…まだ全然だけど、ほんの少しだけ、変わったの。」
「少しじゃなくて、変わったと思うよ。明るくなったし、可愛くなったし。」

 西村の言葉に紫月は首を横に振った。

「…息苦しくない場所を知って、言いたいことを受け取ってもらえることを知って、…だから今、こうやって言いたいことが、…遅いけど、言えてる。明るくも、可愛くもなってないよ。内面が変わったんじゃないの。…知っただけ。待ってもらえるってことを経験して、知って、ようやく頭と心がわかってきた…気がする。」

 紫月は深く息を吸った。そしてまっすぐに西村を見つめた。

「西村くんがいいなって思ってくれた私は、…多分もう、いないよ。」

 最後だけはちゃんと目を見て言うべきだと思った。だからこそ顔を上げた。紫月が言い切ると、一度目がしっかりと合った西村は唇を噛みながら、視線を紫月から逸らした。そして、「もういい」とだけ言い残して紫月に背を向けて階段を下りていった。