西村はまだ紫月たちの方には気付いていないようだった。紫月の横にいた日向は、すっと紫月の前に立った。そして西村の方に背を向け、紫月の方にくるりと向き直った。
「んー…と、一旦落ち着こう。」
静かな夜の空気に、日向の声がすっと溶ける。紫月はゆっくりと日向と目を合わせた。
「紫月さんはちゃんと断ってるんだから大丈夫だよ。」
「…怒って…る、のかも。私…今までずっと、嫌な気持ちにさせてきちゃってた…から…。」
デートでの食事は少し敷居の高いお店にばかり連れていかれて、メニューもだがマナーも気になってしまえば動きはたどたどしくなり、会話にまで気が回らなくなり、それでため息を吐かれたことは一度や二度ではなかった。西村の用意するデートプランについていくのがやっとで、紫月が提案したデートは『つまんなそう』と一蹴されてしまってからは、何を提案したらいいのかわからなくなって、ここがいいとは言えなくなってしまった。『別れよう』と言われたときには、『また私は人を好きになれなかった』と思うこと自体にがっかりして、自分の不甲斐なさに泣いた。しかし、少しだけ安心していたところもあった。誰かを嫌な気持ちにさせる自分のことを嫌だと思わなくて済むと思う部分もあったからだった。
「まぁ怒ってたとしても、夜に女の子の家に来てまでその怒りをぶつけるのは、普通やんないけどね。…このままだと紫月さんが家に帰れないから、蹴散らしてこようか?」
「えっ?」
蹴散らすという日向には似つかわしくない言葉が飛び出して、紫月にしては大きな声が出た。
「あ、いきなり殴ったりしないよ?まずは対話で何とかしようと試みるけど、だめだったら押してどいてもらうかな。」
「あ、危ないからだめだよ!日向くんに危ないこと、させられない…!」
「ちなみに元彼くん、そういう暴力行為に出そうなタイプなの?」
「しない…と、思う、さすがに。」
「そっか。じゃあ一安心。…うん、ちょっと落ち着いたね。」
紫月はふぅっと少し長めに息を吐いた。西村と付き合っていた時のことを思い出すと心が冷える。その冷えた心は一瞬で身を竦ませるけれど、日向の声が聞こえれば少しだけ動き出せて、そのまま落ち着きが戻ってくる。日向の声は紫月にとって魔法のようなものだった。
「とりあえず、いつでも俺が割って入れるから、危ないことは起こらないよ。さっきも言ったけど、紫月さんはちゃんと連絡返してるし、彼の自分本位なお願いを叶えられないって言ってる。」
『したくない』と思う心が自分の中にいつの間にかあったことに、少なからず自分でも驚いていた。自分のしたい、したくないという気持ちは自分一人の時にはよく聞こえるけれど、誰かと一緒にいるときには途端に聞こえなくなってしまう。だが、日向の前では思うこともできれば、言うこともできるのだ。『これがしたい』『これがしたくない』と。笑いながらでも、泣きながらでも。
「…あの、日向くん。」
「うん、何?」
「…鞄、持ちます。ずっと持ってくれてありがとう。おかげでスマホを気にしないで済んだよ。…ここからはね、1日逃げ回った私の悪さを…引き受けないといけないって…思う…。」
日向は紫月の言葉に従って、鞄をそっと差し出した。
「…一つだけ、紫月さんに違うって言う。紫月さんが悪い、っていうのは違うよ。」
声に硬さが、そして視線にはいつもよりも少しピリッとした緊張感があって、紫月は初めて見る日向の表情にドクンと心臓が鳴るのを感じた。
「紫月さんは悪くない。だから、紫月さんがしたいようにしていいし、してほしい。よ。」
「…私が…したいように…?」
紫月が呟くように問いかけると、日向は「うん」と言いながら頷いた。
「元彼の言い分を聞きたい、聞いた上で返したい、見たくもない、聞きたくもない。どんな選択肢だって取れるよ。…本当に、どれでもいいんだよ、紫月さん。」
『どれを選んでもいい』だなんて、記憶にある限りで言われたことがなかった。いつも息をするように顔色や空気をうかがって、自分の気持ちなんて後回しにしてきたから、選択をするということもそれを実行するということにもエネルギーが要る。それでも一人で全部やるなんてできないから、日向が手を貸してくれる今がきっと踏み出す時なのだろう。そう思って、紫月はぐっと右手の拳を握った。
大きく息を吸って、一度吐き出してから鞄の中のスマートフォンを取り出す。3件の着信の後にメッセージが1件入っていた。
『納得できない。会って話そう。』
日向の言う『自分本位』の意味が紫月にも少し、わかってきた。納得できないのも西村で、会って話したいのも西村だ。紫月とのことなのに、紫月のことは考えてもらえない。抱えていた虚しさの理由が見えてきた気がして、スマートフォンのサイドボタンを押して画面を暗くした。
「…メッセージ、大丈夫だった?」
心配そうに落ちた日向の声に、紫月は頷いた。
「うん。納得は、してもらえなかったみたい。…言い方が良くなかったのかな。だから会って話したい。…それで来ちゃった、ってことなんだと思う。」
紫月がそう言うと、日向はわかりやすく盛大なため息をついた。
「っはー…もう。本当に勝手な奴だなぁ!言い方良くないってことじゃなくて、この人が特殊例だからね、紫月さん!だから最後まで付き合ってやらなくても…。」
紫月は首を横に振った。そしてまっすぐに日向を見つめる。
「…えっと、…その、日向くんの手をまた煩わせてしまうんだけど。」
「…それはいいよ。どうすることにしたの、紫月さん。」
紫月はドクドクとうるさく鳴る心臓を感じながら、口を開いた。
「…私は多分、その、彼の前だと一対一じゃちゃんと話せない…かもしれない、から…。」
「うん。」
「間には立っててもらって、…いいかな。その、日向くんの前だと私、ちゃんと自分の気持ちを話せるから、…そのパワーを借りたいなって…。」
日向は紫月の言葉を待ってくれる。待ってもらえるという安心を担保に、一歩踏み出したい。全部自力で解決していないからずるいとも思うけれど、それでも今の紫月ができる精一杯がそれだと思うから。
「元彼くんとの間に入るだけでいいの?…俺さ、元彼くんが紫月さんに失礼なこと言ったら反射で言い返しちゃいそうなんだけど。」
「反射で言い返せるのいいな…すごい…。」
「言い返してもいいの?」
「…あ、えっと、もちろん。日向くんの言いたいことは言ってもらって全然…いい、です。」
「…言いすぎないように気を付けるね。」
「言いすぎになれるくらい弁が立つの、羨ましいよ。」
紫月は力なく微笑む。本当に羨ましい。臆さない心も、それだけ自信をもって話せるということも。
「パワーはいるだけで渡せてる?他にできること、ある?」
紫月は再び首を横に振った。もう十分すぎるほど、日向は与えてくれている。
「…パワー、いっぱいもらってるよ。今日は一日中もらってるし、ここのところずっと、もらってる。…だから、頑張りたい。ちょっとだけでもね、日向くんにみたいになりたいなって、思う…から…。」
言いたいことの全部を言えるようにはならなくても、思いを言葉にするということはやってみたい。何度も諦めて、いつしかできなくなってしまったことだから。
「んー…と、一旦落ち着こう。」
静かな夜の空気に、日向の声がすっと溶ける。紫月はゆっくりと日向と目を合わせた。
「紫月さんはちゃんと断ってるんだから大丈夫だよ。」
「…怒って…る、のかも。私…今までずっと、嫌な気持ちにさせてきちゃってた…から…。」
デートでの食事は少し敷居の高いお店にばかり連れていかれて、メニューもだがマナーも気になってしまえば動きはたどたどしくなり、会話にまで気が回らなくなり、それでため息を吐かれたことは一度や二度ではなかった。西村の用意するデートプランについていくのがやっとで、紫月が提案したデートは『つまんなそう』と一蹴されてしまってからは、何を提案したらいいのかわからなくなって、ここがいいとは言えなくなってしまった。『別れよう』と言われたときには、『また私は人を好きになれなかった』と思うこと自体にがっかりして、自分の不甲斐なさに泣いた。しかし、少しだけ安心していたところもあった。誰かを嫌な気持ちにさせる自分のことを嫌だと思わなくて済むと思う部分もあったからだった。
「まぁ怒ってたとしても、夜に女の子の家に来てまでその怒りをぶつけるのは、普通やんないけどね。…このままだと紫月さんが家に帰れないから、蹴散らしてこようか?」
「えっ?」
蹴散らすという日向には似つかわしくない言葉が飛び出して、紫月にしては大きな声が出た。
「あ、いきなり殴ったりしないよ?まずは対話で何とかしようと試みるけど、だめだったら押してどいてもらうかな。」
「あ、危ないからだめだよ!日向くんに危ないこと、させられない…!」
「ちなみに元彼くん、そういう暴力行為に出そうなタイプなの?」
「しない…と、思う、さすがに。」
「そっか。じゃあ一安心。…うん、ちょっと落ち着いたね。」
紫月はふぅっと少し長めに息を吐いた。西村と付き合っていた時のことを思い出すと心が冷える。その冷えた心は一瞬で身を竦ませるけれど、日向の声が聞こえれば少しだけ動き出せて、そのまま落ち着きが戻ってくる。日向の声は紫月にとって魔法のようなものだった。
「とりあえず、いつでも俺が割って入れるから、危ないことは起こらないよ。さっきも言ったけど、紫月さんはちゃんと連絡返してるし、彼の自分本位なお願いを叶えられないって言ってる。」
『したくない』と思う心が自分の中にいつの間にかあったことに、少なからず自分でも驚いていた。自分のしたい、したくないという気持ちは自分一人の時にはよく聞こえるけれど、誰かと一緒にいるときには途端に聞こえなくなってしまう。だが、日向の前では思うこともできれば、言うこともできるのだ。『これがしたい』『これがしたくない』と。笑いながらでも、泣きながらでも。
「…あの、日向くん。」
「うん、何?」
「…鞄、持ちます。ずっと持ってくれてありがとう。おかげでスマホを気にしないで済んだよ。…ここからはね、1日逃げ回った私の悪さを…引き受けないといけないって…思う…。」
日向は紫月の言葉に従って、鞄をそっと差し出した。
「…一つだけ、紫月さんに違うって言う。紫月さんが悪い、っていうのは違うよ。」
声に硬さが、そして視線にはいつもよりも少しピリッとした緊張感があって、紫月は初めて見る日向の表情にドクンと心臓が鳴るのを感じた。
「紫月さんは悪くない。だから、紫月さんがしたいようにしていいし、してほしい。よ。」
「…私が…したいように…?」
紫月が呟くように問いかけると、日向は「うん」と言いながら頷いた。
「元彼の言い分を聞きたい、聞いた上で返したい、見たくもない、聞きたくもない。どんな選択肢だって取れるよ。…本当に、どれでもいいんだよ、紫月さん。」
『どれを選んでもいい』だなんて、記憶にある限りで言われたことがなかった。いつも息をするように顔色や空気をうかがって、自分の気持ちなんて後回しにしてきたから、選択をするということもそれを実行するということにもエネルギーが要る。それでも一人で全部やるなんてできないから、日向が手を貸してくれる今がきっと踏み出す時なのだろう。そう思って、紫月はぐっと右手の拳を握った。
大きく息を吸って、一度吐き出してから鞄の中のスマートフォンを取り出す。3件の着信の後にメッセージが1件入っていた。
『納得できない。会って話そう。』
日向の言う『自分本位』の意味が紫月にも少し、わかってきた。納得できないのも西村で、会って話したいのも西村だ。紫月とのことなのに、紫月のことは考えてもらえない。抱えていた虚しさの理由が見えてきた気がして、スマートフォンのサイドボタンを押して画面を暗くした。
「…メッセージ、大丈夫だった?」
心配そうに落ちた日向の声に、紫月は頷いた。
「うん。納得は、してもらえなかったみたい。…言い方が良くなかったのかな。だから会って話したい。…それで来ちゃった、ってことなんだと思う。」
紫月がそう言うと、日向はわかりやすく盛大なため息をついた。
「っはー…もう。本当に勝手な奴だなぁ!言い方良くないってことじゃなくて、この人が特殊例だからね、紫月さん!だから最後まで付き合ってやらなくても…。」
紫月は首を横に振った。そしてまっすぐに日向を見つめる。
「…えっと、…その、日向くんの手をまた煩わせてしまうんだけど。」
「…それはいいよ。どうすることにしたの、紫月さん。」
紫月はドクドクとうるさく鳴る心臓を感じながら、口を開いた。
「…私は多分、その、彼の前だと一対一じゃちゃんと話せない…かもしれない、から…。」
「うん。」
「間には立っててもらって、…いいかな。その、日向くんの前だと私、ちゃんと自分の気持ちを話せるから、…そのパワーを借りたいなって…。」
日向は紫月の言葉を待ってくれる。待ってもらえるという安心を担保に、一歩踏み出したい。全部自力で解決していないからずるいとも思うけれど、それでも今の紫月ができる精一杯がそれだと思うから。
「元彼くんとの間に入るだけでいいの?…俺さ、元彼くんが紫月さんに失礼なこと言ったら反射で言い返しちゃいそうなんだけど。」
「反射で言い返せるのいいな…すごい…。」
「言い返してもいいの?」
「…あ、えっと、もちろん。日向くんの言いたいことは言ってもらって全然…いい、です。」
「…言いすぎないように気を付けるね。」
「言いすぎになれるくらい弁が立つの、羨ましいよ。」
紫月は力なく微笑む。本当に羨ましい。臆さない心も、それだけ自信をもって話せるということも。
「パワーはいるだけで渡せてる?他にできること、ある?」
紫月は再び首を横に振った。もう十分すぎるほど、日向は与えてくれている。
「…パワー、いっぱいもらってるよ。今日は一日中もらってるし、ここのところずっと、もらってる。…だから、頑張りたい。ちょっとだけでもね、日向くんにみたいになりたいなって、思う…から…。」
言いたいことの全部を言えるようにはならなくても、思いを言葉にするということはやってみたい。何度も諦めて、いつしかできなくなってしまったことだから。



