紫陽花の憂鬱

(日向くんに渡さなきゃいけない資料はできた。)

 これが今日の仕事の最優先だった。本当は朝からやるつもりだったが、午後からになってしまい間に合わなかったら残業しようと思っていた。どうにか終業時刻の30分前には終わり、ふぅと一つ、ほっとしたため息を零した。マウスから手を離して少しPCから距離を取ると、給湯室から出てきた日向と目が合った。

「もしかして、終わった?」
「あ、うん。終わりました。データの方がよければそのまま送るし、紙の方がよければ印刷して…。」
「印刷、こっちでやるからデータだけ送ってください。なるべく動かないこと。」
「あっ…えっと…は、はい。」

 あまりに集中していたからなのか痛みのことを忘れていた。指摘されると確かに痛みが完全になくなったわけではないことを思い出す。そしてもう一つ、思い出したくなかったことを思い出させるかのようにスマートフォンが震えた。今度も2回、連続で。
 体がびくっと動いてしまったのは、反射のようなものだった。日向と待ち合わせをする間の電車の中でブロックを解除し、かといって何を言えばいいのかわからなくてそのままにしていたら、昼にはもう西村からの連絡が入っていた。病院に行っていたから忙しかったという言い訳はギリギリできると踏んで、昼のものはひとまず見ずにこの時間まで来た。そして終業間際を見越したかのように、再び震えたスマートフォンに触れてひっくり返す勇気は半日経ってもやはりたまることはなく、指先が微かに震えた。それを隠したくて、紫月は左手で右手をぐっと押さえた。

「梅原さん?」
「あっ、ごめんなさい。すぐ送ります。」

 日向からPCに視線を移して、紫月は日向宛の社内チャットに書類を添付する。そのことを口頭でも伝えようと思いくるりと振り返ると、日向は紫月のデスクのすぐ近くにいた。そしてそっと、紫月の机にメモを置いた。

「資料ありがとう。すぐ確認します。来週、先方の話を聞く前にちょっと打ち合わせの時間を作ってもらえると助かるんだけど、大丈夫そう?」
「も、もちろん!」
「よかった。じゃあ来週も引き続きよろしく。」

 表向きは業務連絡だけだったが、紫月は目の前の日向のメモに目を落としていた。

【帰りの時間をラッシュとずらすために、どこかでご飯食べて帰らない?紫月さんが会社出てから5分後に俺も出るので、会社の向かいの本屋さんに入っててもらってもいい?そこで待ち合わせさせてください。ちょっとやっぱり、色々心配なので。】

「この件も、大丈夫?」
「…え、えっと…。」
「できれば、ぜひ。」
「…わ、わかりました。」

 トン、とメモに日向の指が触れた。紫月が顔を上げると、日向はいつも通り優しく微笑んでいた。

* * *

 紫月は定時に退社した。そして鞄に忍ばせたメモ通り、会社の向かいにある本屋に入る。あまり奥の方に行くと日向からはわかりにくいだろうと思って、手前の雑誌のあたりで立ち止まる。

(…秋冬の洋服も、可愛い。)

 季節の移ろいと共に、少しだけ服に目がいくようになった。着たいものを着ることにもほんの少しだけ慣れて、少し明るい色が着てみたいと思えるようにもなった。少しずつ、顔が上げられるようになったと思っていたのに、今はもう、次の通知が来たらどうしようと思っている。職場の人と食事に行っていたので見れなかった、というのは言い訳になるだろうかと考えれば考えるほど、指先は冷えていく。

「こういう黄色も似合うと思う。」
「へっ、あっ、日向くん!」
「夏は売ってるやつも少し薄い黄色だったけど、寒くなるとちょっとイチョウっぽい黄色になるよね、なんか。マフラーとかそういうのも良さそう。」
「…必死感、出てた…?」
「ううん、全然。普通の仕事帰りのOLさん。ちょっと足が痛そうバージョンって感じ。じゃあ、とりあえずご飯行こう。今日はね、ちゃんと個室を予約しておきました。」
「い、いつの間に?」
「今日は結構仕事早く終わっちゃってたから、ちょっと最後の20分くらいで探して。会社の人には言わないでおいてね。」

 ははっと軽く笑いながらそういう日向に少しだけ気が抜ける。緊張で強張っていた体にすっと風が通ったような、楽になる感じがあった。

「はい、鞄貸して。紫月さんは歩くことに集中。」
「あの、かなり上手にというか、体重のかけ方が上手くなったので鞄持ってても大丈夫だよ?」
「いいの。はい、お店はこっちです。」
「…ごめんね、何から何まで。本当にありがとう。」

 嬉しいし、ありがたいと思う気持ちは本当なのに、口をついて出てくる最初の言葉は『ごめん』である自分のことは本当に好きになれない。そんなことを思いながら、紫月はゆっくりと1歩を踏み出した。

* * *

 掘りごたつタイプの個室の居酒屋だった。いつも行くところよりも少し静かだが、日向と二人での食事も数を重ねて少し慣れてきたため、最初の頃ほどの緊張感はさすがにもうなかった。

「捻挫にいいご飯って何なんだろう。っていうかそんなのあるかな?」
「わ、わかんない…。あ、あの、日向くん。」
「うん、何?」
「お店の予約までしてくれてありがとう。あの…今日一日ずっと色々なところで気遣わせちゃって…助かったんだけど、その、申し訳ないなとも思ってて…。」

 最初の方こそ日向と目を合わせて話せたが、段々視線が下がってしまった。それに比例するように声も小さくなったところで、鞄の中のスマートフォンの震えが、鞄を通して伝わった。ガタンと肘をテーブルに打ってしまい、静かな個室に不自然な音が響いた。

「ご、ごめんなさい!」
「ううん、全然。…やっぱり、何かあったよね。今日、午後ずっと辛そうだった。今も、…辛そう。」

 ハッとして顔を上げると日向の表情から笑顔が消えている。そんな表情にさせてしまったことも申し訳なくて、紫月は頭を下げた。

「…ごめん…なさい…。」
「謝ってもらうようなことじゃないよ。ただ心配だったから、無理やりここまで連れてきただけ。」
「無理やりなんかじゃ…日向くんは、…そうじゃ、ない…。」

(日向くんは私に無理強いしない。…どれだけのろまでも、曖昧でも、言葉を待ってくれる、から。)

「話してくれてもいいし、話さなくてもいいよ。でも、…そうだな、そんな泣きそうな顔で帰すのは、…したくない、かも。」
「…そんなに顔に、出てた?」
「ニコニコの紫月さんを知っちゃってるから、余計にそう見えただけ。他の人は気にしてないと思うよ。」
「…そっか。それなら…よかった。」

 日向は優しいから迷惑だとは言わないけれど、会社の人にこれ以上迷惑はかけられない。日向がそう言ってくれるのならば、ギリギリのところは保つことができていたのだろう。

「…昼はさ、怪我の方に俺も意識がいっちゃってたけど。紫月さん、昨日もしかして…泣いた?」
「えっ…?」
「すごくってわけじゃなくて、ちゃんと見たら少し瞼が重そうだったなって。」
「…すごいね、日向くんは。いつでもお見通しだ。」
「いつでもじゃないよ。たまたま、紫月さんのことは合ってただけ。」

 6月もそうだった。日向は言わないと紫月が決めたって怒りはしない。だが、この人に話せたら少し楽になれるのかもと思わせる何かを、日向は持っている。

「紫月さん、一つだけ答えて?…怖いこととか嫌なこととか、困ってることとか、…あったよね?」