紫陽花の憂鬱

* * *

 満員の時間帯ではなかったため、紫月は移動時以外は座って駅まで到着することができた。改札を出たところには日向が立っていた。紫月を見つけるとすぐにパッと一瞬表情が明るくなったが、ふと紫月の足元に視線が移動した後は、その表情が一気に曇ってしまった。

「…結構がっちりしたサポーターじゃない?」
「市販のものじゃなくて医療機関のものだから…。」
「肩貸す?荷物持つ?」
「あ、えっと、大丈夫大丈夫。あの、大げさに見えるかもだけど歩けるし。」
「…足って地面ついたら普通に痛くない?」
「その、家出た時よりは随分マシになったから…。」
「マシなだけで、治ったわけじゃないからね。無理しないこと。まずはご飯食べようよ。近くにフードコートあるからそこでいい?」
「もちろん。」
「靴の買い物は腹ごしらえしてからね。はい、鞄は俺にください。」
「えっ?」
「紫月さんは慎重に、歩くことに集中して。」

 鞄を渡さないと動いてくれないという意思を感じて、紫月はそっと日向に鞄を預けた。日向はいつもよりもぐっと歩くスピードを遅めて、横についていてくれる。

「…足以外にもどこか怪我してる?」
「あ、ううん。転んだわけではなくて、だから手をついて擦っちゃったりとかそういうこともないの。ただ、…捻った…だけ、で…。」

 西村が来たことに動揺して、会話が噛み合わなくて怖くなって、曖昧な態度の自分に嫌気がさして、その結果が捻挫だ。情けなくて、思わず紫月は俯いた。

「怪我、1か所だけでひとまず良かった。何食べる?紫月さんは座っててね。」

 フードコートに着いて紫月は半ば強制的に座らせられた。

「あ、日向くん、先に注文してきていいよ。私後から…。」
「いやいや。紫月さん、気になるお店とか食べたいものとかある?」
「私?」
「うん。取りに行くのとかは全部俺やるから、紫月さんはここに座ってて。」
「いや、あの、本当に大丈夫で…!」

 日向に介護まがいのことをさせたくはなかった。そこまでしてもらっていい立場でもない。

「紫月さんは大丈夫でもね、俺がその足の紫月さん動かしたくないの。気になるお店のメニューの写真撮ってくるよ。」

 今日の日向にはいつもよりも気迫というか、有無を言わせない雰囲気がある。

「…え、えっとじゃあ…日向くんは、何にするの?」
「んー俺はとんこつラーメンにしよっかな。半チャーハンつけて、あとは餃子も食べようかな、結構腹ペコかも、今日。」
「ラーメン…あの、私も同じラーメンにしてもらってもいいかな。えっと…さすがに半チャーハンと餃子までは食べれないから、ラーメンだけで…。」
「同じのでいいの?他も見てこようか?」
「同じの、食べたい、です。」

 同じものだったら食べられる、そんな気がした。日向はふっと軽く微笑んで、頷いた。

「わかった。じゃあ紫月さんはゆっくり待っててね。先に水取ってくるから。」

 申し訳なさがなくなったわけではないが、日向の言葉に紫月は小さく頷いた。

* * *

 結局ラーメンをぺろりとたいらげて、日向に勧められるがままに餃子を一つもらった。片付けの一切を日向が担ってくれたおかげで、紫月の足は痛むことがないままランチタイムを終えることができた。

「あとはオフィスでも大丈夫そうな靴…だっけ?」
「うん。あの、家にあったサンダルがこれしかなくて、左右バラバラのを履く勇気は…ちょっとなくて。」
「なるほどね。じゃあ普段の紫月さんのサイズよりも少し大きめで選んだ方がいいかな。」
「左足の方だけサイズが大きくなっちゃうんだけど、そこはもう仕方がないので。…あとは、事情を話して会社でもこれで大丈夫か聞ければ…。」
「それは大丈夫だと思うけど。紫月さん、外に出ることはほとんどないでしょ?一応外に出るとき用の靴だけ置いておいて、基本はサンダルでいいんじゃないかな。このサポーター見たら一発でオッケー出ると思うよ。」
「…そ、そっか。」

 日向に大丈夫と言われると、途端に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。紫月の鞄はいつの間にかまた日向の手元に握られている。ずっと至れり尽くせりで、嬉しくて有難いのに、申し訳ない気持ちもなくなってはくれない。

「…あ、あの、日向くん。」
「ん?」
「今度ちゃんと、お礼させてね。こんなに色々付き合ってもらっちゃって…ありがたいんだけど、申し訳なくて…。」
「じゃあ、治ったらまたどこか行こうね。お礼はそれがいい。」
「そ、そんなのお礼にならないよ!」
「え、そう?紫月さんの時間をもらうんだよ?充分お礼でしょ。はい、出発するから紫月さんは歩くのに集中する!」
「わっ、は、はい!」

 * * *

「梅原さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい。あの、すみません、今日いきなり午前休んでしまって…。」

 サポーターをつけたままでも履けるタイプのサンダルがすぐ見つかって、ゆっくり歩いても充分午後の始業開始に間に合う程度の余裕がある中、紫月と日向は会社に到着した。紫月のサポーターを見るなり、後輩や上司たちの表情が先程の日向同様に曇った。

「…すみません、仰々しい感じになってしまって。」
「そんなことないです!梅原さん、代わりにはならないですけど、何でも言ってくださいね。」
「あ、ありがとう。」

 最近4月から紫月が指導している後輩である遠藤がやや前のめりで紫月に話しかけてくるのが珍しく一瞬驚いてしまったが、心配してくれていることは素直に嬉しかった。

「梅原さんの荷物、ここに置いちゃっていい?」
「あ、うん。ありがとう、日向くん。」
「2人、どこかで会ったんですか?」

 突然少し棘のある声が飛んできた。メイクがはっきりした、数個年下の女の子たちの一人が、紫月を見つめながら問いかける。紫月はピリッとした緊張を感じて、しかし努めて冷静に口を開いた。

「ビルの下でばったり会ったので、厚意に甘えて鞄を持ってもらいました。」

 そう言うと、日向の方にくるりと向き直る。そしてぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございました。助かりました。」
「ううん、全然。困ったことがあったらいつでも言ってね。」
「…な、なるべく頼らず、ちゃんとやります。」
「うん。無理はしないでください。」

 女の子たちの視線がなくなったわけでもないが、あらぬ誤解はもたれないに越したことはない。紫月は笑顔で誤魔化し、座席に座る。

(お昼も一緒に食べてて、サンダル探しに付き合ってもらってなんてことを言ったら…怒られちゃうな、私が。)

 日向に優しさを向けられたい人は、それこそたくさんいる。だから独り占めしてはならない。それを頭では正しく認識しているし、本当にその通りだとも思っている。それでも、朝はあまり食べれなかった自分が日向のおかげで普通に一人前を食べきり、今こうやって少しだけ軽くなった気持ちでデスクに向かえていることもまた正しくて、戸惑って、揺れてしまう。

(…また一緒にどこか行くことは、…お礼じゃなくて、私がただ嬉しいだけのことになっちゃうんだよ、日向くん。)

 何気なく鞄からスマートフォンを取り出し、画面が見えないようにデスクに置く。そしてPCの電源をつけ、起動を待つ。その間にブーブーと2回、確かに震えたスマートフォンをひっくり返すと、そこに現れた名前に温まったはずの心は急激に冷やされた。