紫陽花の憂鬱

 8月の間に水族館へ行き、9月には平日の勤務後にプラネタリウムに駆け込んだ。意外と終業後でも遊びに行けるものだということがわかって二人で笑い合った。意外な発見だったということを記した日記のページに目を落とし、読み終えて閉じる。
 紫月は1日1ページタイプの日記をつけている。続けられるようにと思ってA6サイズのものを選んだ。1日までならサボってもいい、ただし次の日は2日分書くことという自分ルールの下、3年ほどは書き続けている。今まではちょっとした街並みの変化や仕事の出来不出来、読んだ本の面白さ程度しか書くものがなかったが、ここ2ヶ月くらいの日記は明らかに変容していた。

(…日向くんの言葉が増えた。)

 自分の感情もそうだが、言われて嬉しかった日向の言葉を覚えている限りで書き残していた。記憶はいずれ薄れていくものだからこそ、記録としては消したくなかった。日向の言葉に対する感情がいつも『嬉しかった』『ありがたかった』という文字にしかならない自分に対する残念な気持ちは募るが、そこはもうそれしか言葉をもたないのだから仕方がない。なるべく自分の感想は見ないようにして、日向のくれた言葉だけをつまんで読み返す。たったそれだけで、落ち込みやすかった夜の時間が過ごしやすくなっていた。

* * *

 木曜日がいつも通りに終わり、変わらない帰路につく。今日は特に何のトラブルもない一日だったし、日向は1日中外回りだったようで会話をするチャンスは紫月にはなかった。社内で日向を狙っている女子は少なくない。そういった子たちは今日も変わらず話しかけていたような気がするが、紫月にはそんな勇気も行動力もなかった。帰り道に日向の姿を思い出してため息をつくくらいなら、LINEでもなんでも連絡をすればいいだけのこと。それすらもできないのは、同期であるという関係性でどこまで連絡していいのか悩んでしまい、そこで止まってしまうからに過ぎなかった。
 頭をブンブンと振って、もやもやとした気持ちを少しでも晴らしたい。そう思いながら歩いていた、その時だった。

「紫月。」

 背後から掛けられた声に、紫月はゆっくりと振り返る。

「…西村…くん…。」

 足を止めてしまったが、西村が距離を詰めてくるたびに紫月の方は後ずさってしまう。今更一体、自分に何を言おうとしているのかわからなくて。

「良かった、会えた。」

 ほっとしたように微笑む西村に、上手く笑い返せている気がしない。紫月はそんな表情を向けてはいけないと咄嗟に思い、俯いた。

『なんかさ、俺に無理して笑ってない?』
 西村の過去の言葉が、まるで昨日言われたことのように鮮明に蘇ってくる。悪意はなかったのだと、おそらくはそう思う。それでも声のトーンも、そのあとにつかれたため息も、あの日の空気感を完全に忘れてしまえるほどの時間が経っていたわけではなかった。

「なんか、ちょっと変わったね。可愛くなった?」
「そ…そんなことは…ない…と思う…。」

 数歩後ずさる程度ならば不自然ではないかもしれないが、これ以上はきっと不自然に映る。そう思って紫月はそこで立ち止まる。ゆっくりと視線を上げると、西村は優しそうに見える笑顔を浮かべている。それでも胸の奥が冷えていくのは、今ある感情が『会えて嬉しい』でも『可愛いと言われて嬉しい』でもなく、ただ『なぜ』だけがあるからなのだろう。

「あのさ、俺、謝りたくて。あの時はごめん。紫月が何にも言ってくれないから、…あんまり俺のこと、好きじゃないって決めつけて。一方的にそれだけ言って終わらせるとか、今思えば最低だったなって。だから、紫月さえ許してくれるなら、また食事とか行ったりデートしたりしたいなって思って、それで…今日来たんだ。」
「そ…そう…なんだ…。」

 理由は少しだけはっきりとした。それでも、怖さは消えてくれなかった。謝られていいよ、と言えるほどの情も本当はないけれど、そう突っぱねられるほどの強さもない。沈黙が落ちて、西村が口を開く。

「今日とかさ、もう夕飯食べた?まだなら一緒に食べない?」

 夕飯は食べていなかった。しかし、一緒に食べたいとは思えなかった。帰り道に感じていた空腹は、今は別の感情で吹き飛んでしまっている。

「えっと…ごめん、会社の人と、食べてきちゃって…。」
「あ、そうなの?珍しいね、そういうの。あんまり会社の人と話すの、得意じゃないって言ってたから…。」
「そ、そうだったんだけど、でも最近はその、少し頑張ってて。」
「へぇ、そうなんだ。だから可愛くなったのかな?」
「…それは、わからないけど。でも、今日はちょっと…ごめんなさい。」

 紫月は頭を下げた。

「じゃあいつなら行ける?」
「えっ…あ、え、えっと…。」

 引き下がってくれなかったことにまた一つ、怖さが増す。はっきりと迷惑だから帰ってほしいと言えれば終わるのかもしれない。しかし、そんな風に言える自分は非現実的だ。

「何度か紫月にLINEしてるんだけどさ、もしかして俺の連絡先消しちゃった?」
「あっ…その、不用意に残してたらよくないって思って…。」

 消したというよりはブロックをしていた。連絡が来ても見れないようにすれば、少なくともトラブルに巻き込まれることはない。そう思っていたから、西村の方から連絡が来ていたと知り、紫月の方はと言えばただただ驚くばかりだ。

「そういうところ、紫月はちゃんとしてるね。…やっぱりさ、紫月ともう1回きちんと話したいんだけど。時間って作ってもらえるかな?」

 ずっと、テンポが速い。求められることが多くて、自分のペースを守れない。会話が息苦しくて溺れそうだった。

「…あの、今すぐ予定はわからない…から、今日はあの、いきなりでびっくりしてて…待ってもらっても、いい…かな…?」
「うん。ごめんね、いきなり。でも前向きな返事がもらえて嬉しい。連絡、待ってる。」

 いきなり手が取られて、一瞬びくっとしてしまったがどうやらそれは感じ取られなかったらしい。

「今日は帰るね。顔見れて良かった。…おやすみ。」

 ポンポンと軽く頭に触れた西村の手。前に日向に撫でられたものと行為自体は同じはずなのに、温度も触れ方も何もかもが違っていて、紫月は顔が上げられなかった。ペコっと頭を下げているフリをして、足音が遠ざかっていくことだけで、西村がこの場から去って行ってくれていることを感じる。
 完全に音がしなくなって顔を上げた。確かにもう、西村はいない。そのことに安堵してもなお、足元は覚束なかった。いつもならしっかりと歩けるはずの階段で、左足を捻って転びかけ、咄嗟に手すりを掴んだ。思っていた以上に体重が変な箇所にかかってしまったらしく、じくじくと痛む。

「…痛い…な…これはちょっと…。」

 すぐ抜けるかと思った痛みがじわじわと広がっていく。玄関のドアを開けて中に入り、すぐさま鍵を閉める。チェーンをかけると、足元に残されていた力は全てなくなってしまった。
 ずるずると玄関のドアを背にしてそのまま足元から崩れた。自分がこうなってしまった理由を上手く言語化できそうにないなと思いながら、ただただ落ちてくる涙をそのまま流し、捻った足首を冷たくなった手でさすった。