紫陽花の憂鬱

 紫月はゆっくりと目を覚ました。なんだか妙に右半身が温かい。少しぼやけた視界で右側を見ると日向の腕にぴったりと自分の右腕がくっついていた。急に自分のしていたことがはっきりとして、紫月はパッとのけぞった。そして動揺しながらも場所のことも考え、あまり大きくはなりすぎない程度の声で言った。

「っ…ご、ごめんなさい!重かったでしょ…?痺れてない?」
「あ、起きた?あと2分寝てても良かったのに。すごいね、体内時計。」
「そ、そんなことより腕っ…!」

 眠るときにはまっすぐ寝たはずで、電車で眠ってしまっても大きく揺らぐことはなく、静かに眠るタイプだと自負していたのに、日向には思い切り寄りかかって眠ってしまったらしく、心臓がバクバクとうるさく鳴った。

「痺れてないし、そもそも軽すぎたし大丈夫だよ。少しは眠気飛んですっきりした?」

 紫月はこくこくと頷いた。頬が熱い。自分のしでかしたことが恥ずかしくて、耳まで熱くなってきたように感じる。

「よかった。じゃあデートは延長できるね。この本一旦返して、ちょっと別の場所に行ってみようよ。あとなんか、3時くらいになったらケーキとか食べて休憩しよう。ケーキだけじゃなくてスコーンとかもあったし、もうちょっとよく見て選んで、食べてみたい。」

 日向は何も気にしていないことのようにそう言ってくれるから、紫月も少しずつ平常心を取り戻す。一人で焦って、恥ずかしくなってバカみたいだとは思うものの、こうやって日向が普通でいてくれるから、紫月もゆっくり気持ちをここに戻すことができる。

「行こう、紫月さん。」
「う、うんっ!」

 窓から差し込む光が、前を歩く日向を少し照らす。その光に負けないくらいまっすぐに伸びた背も、時折後ろを振り返ってくれる優しさも眩しい。隣を歩けばいいのに、真横に立つには勇気と経験が足りなくてできない。だからと言って手を差し伸べられたとしても自分はきっとその手を取れない。日向は物語の王子様のように輝いているけれど、自分はお姫様にはなれないのだから。

(…だから、ちょっと後ろのこの位置から眺めるのだけは…許してほしいな。)

 置いていかれることも急かされることもないこの心地よい距離でいたい。笑みを向けられたら笑みを返したい。そういう温かさがずっとあるこの時間を、今日はもうちょっとだけ続けたい。そんな思いを込めて、日向の背に近付いた。


* * *

 ブックカフェの近所の隠れ家的喫茶店で夕飯を食べ、気付けば7時になっていた。ようやく外が歩ける程度の気温と湿度に落ち着いてくれたように感じる。

「はー…暗くなっちゃったね。1日あっという間だった。超充実の一日だった!」
「…ほんと?」
「うん。美味しい物しか食べてないし、さっきの喫茶店もさ、シェアして食べれて一人で食べるよりも満足度高くない?いろんな味楽しめてさ。」

 紫月は頷いた。あっという間だった。緊張はいつの間にか消えていて、日向の分を切り分けることもさっきは自然にできた。思い返すと今日は本当に色々なことが『できた』1日だった。

「あのさ。」
「うん?」

 日向が一度紫月から視線をずらした。しかしすぐにきゅっと口を結んでから、ふぅと息を吐いて、日向は問いかけた。

「紫月さんのお家まで送るっていう延長戦は、アリですか?」
「え!?」
「あ、嫌だったらちゃんと断ってね。無理強いしたいわけじゃないから。…ただ、その場合も家着いたら連絡は欲しい感じではあるんだけど…。」
「いやあの…嫌とかそういうのじゃなくて、その…日向くんの負担になっちゃうなって…。」

 紫月がそう言うと、日向は静かに首を横に振った。

「負担じゃないよ。嫌じゃないなら、紫月さんに何かあったら心配だし家まで送らせて。」
「……。」

 まっすぐな視線とその優しい声に導かれるように紫月は迷った挙句、頷いた。

「…あの…。」
「うん。」
「よろしく…お願いします。」
「うん。…よし、これでデート延長、続行だね。ここからどの電車乗る?」
「あ、えっと、地下鉄の方が早いかも。」
「そっか。地下鉄の駅はどっちかな。ちょっと見るね。」
「ありがとう。」

 調べてくれること以上に、日向が笑っていてくれることがありがたかった。無表情になることは1日中なくて、ずっと優しい顔を向けてくれるから安心する。身長も紫月より高いし、足の長さだって長いのに置いていかれないのはずっと日向が合わせてくれているからだ。

(…延長戦は、…あと1時間は、ない。)

 もうすぐ夢みたいな時間は終わる。それがなんだか妙に苦しくて、紫月は胸の前で右手をきゅっと握った。

* * *

「駅から意外と近くて良かった。ちゃんと明るい道だね。」
「あ、えっと、うん。たまに夜遅くなっちゃうときもあるから…。」
「ね。でも安心した。…今日は1日付き合ってくれてありがとう。紫月さんの休日に混ぜてもらえて楽しかった。」
「そんな…こちらこそ!一日本当に楽しくて…。」

 楽しかった、嬉しかった、話を聞いてもらえた、一緒に本を読めた、いろんな気持ちが駆け巡る。鍵を開けてしまったら、今日が終わってしまう。延長戦を長引かせたいのに言葉が上手く出てこなくて、詰まってしまう。

「…うん。楽しかったね、本当に。」

 紫月は何度も頷いた。頷いている間に言葉をまとめたかった。

「はは。今日さ、いっぱいそうやって頭コクコクってする紫月さん見た。…今日1日中ずっと、いっぱいいっぱいだったよね。」
「ゆ、ゆとりがなくて…あの、いっぱい、噛みしめたいことがあって…言葉にするのもあんまり上手じゃなくて…でも。」
「うん。」

 日向はただまっすぐ、紫月を見つめている。しばらくの間があって、紫月はようやく言葉を紡ぎ出す。

「…でも、日向くんが言葉を足してくれるから、待ってくれるから…ちゃんと話せた。…聞いてくれてありがとう。日向くんのおかげで1日、本当に楽しく過ごせました。」

 紫月はゆっくりと頭を下げた。顔を上げると、日向は目をいつもより細めて微笑んでいた。

「…じゃあ、またデートに誘ってもいい?」
「へっ?」
「今日は紫月さんに提案させちゃったから…そうだなぁ、デートの王道っぽいところとか、行ってみない?」
「デートの王道…?」
「水族館とか映画館とか、もう少し涼しくなったら食べ歩きとかさ。暑い間は室内で過ごせるほうがいいから、カフェとかでもいいけど。色々考えるから、一番紫月さんが見たいなとか行きたいなって思うもの、教えて?」
「…次も、あるの?」

 夢から覚めたら、もう続きはないと思っていた。それなのに、こんなに優しい続きが目の前に出されて戸惑いながらも紫月は何とか口を開いた。

「次もその次も、紫月さんが付き合ってくれるなら楽しく過ごせるなって今日思ったよ。…だから、次もある。…っていうか、あってほしい。さすがにデート1回だけは寂しいかも、俺が。」
「…あ、あの…本当に?」
「え?」
「今日みたいに楽しい日がまた、あるの?」

 紫月が問いかけると、日向はにかっと笑った。

「気合が入るね、これは。今日とは違う楽しさになるかもだけど、楽しい1日にするよ。」

 日向の言葉に紫月は思わず口元がふっと緩んでいくのを感じた。そしてそのまま、頷いた。

(…終わりじゃ、ない。『次』もある。…延長戦は、今日で終わりじゃない。)

 たったそれだけのこと。そう思う人もきっと世の中にはたくさんいるのだろうが、今日の紫月には『次がある』ということが、心を寂しくさせなかった。