昼食を終え、別の本を手に取ってまた二人掛けのソファに戻ってきていた。
「…あの。」
「ん?」
「えっと、日向くんはちゃんとその…楽しめてます、か?」
紫月は色々な本を手に取れることもそうだが、このふわふわのソファに座ってゆったりと時間を過ごせることも、目移りしてばかりの本棚が無限に思えるくらいにあることも何もかもが楽しい。しかし紫月ばかりが楽しいのではデートとしては失敗だ。
「うん。ずっと楽しいよ。こんな充実した休日、なかなかないかも。」
「…ほんと、に?」
不安がすぐに前に出てしまう。日向はずっと笑っているし、嫌そうな顔をしていたことなんてなかったのに、本に少し没頭してふとしたタイミングで隣に日向がいることを思い出すと、こんなデートで大丈夫なのかと心配になる。
「うん、本当。本もさ、久しぶりに触ったけど、触っちゃえば読めるもんだね結構。写真が多めなものばっかり取ってきてるってのもあるとは思うけど。」
「…何の写真?」
「ん?ああ、なんか世界の図書館を集めてるっぽい。すごいよね、夢がある。」
日向がページをぺらぺらめくった。海外の図書館の写真と解説が載っている本らしい。このブックカフェにあるものよりもはるかに大きな本棚が、それこそ映画のような配置で並んでいる。紫月は思わず身を乗り出していた。
「…す…すごい…。」
「ね。一緒に見る?」
「え、えっと、邪魔じゃ…ない?」
「うん。邪魔なんかじゃないよ。紫月さん、ちゃんと見える?」
「う、うん。ありがとう。」
身を乗り出したせいで日向の左肩に紫月の右肩が触れた。しかしそれ以上距離を取ると本の中身は見えなくなってしまう。緊張する胸を押さえ、紫月はページに集中した。
「…ちょっとした遊園地じゃない?こんな大きさなら。」
「そうかもしれないね。ちゃんと立ち止まっちゃったら1日では回り切れないかも。」
「ね。…今日ここに来なかったらさ、こういう場所があるって知らなかったし、世界にはこんなに綺麗ででっかい図書館があるってことも知らなかった。知らないことに出会うとなんかちょっとだけ得した気分っていうか、賢くなった感じっていうのかな。そういうのがあって面白い。だから楽しいよ。紫月さんが楽しいって思うもの、見せてもらえて嬉しいし。他に心配事はある?」
「えっ?」
「ずっと楽しそうなのに、時々思いつめたみたいな顔になるから、何考えてるのかなって思ってた。俺が楽しめてるか心配してたんだね。」
そっと耳に響いた日向の言葉が優しくて、柔らかくて、胸の奥がじんとした。
「…私ばっかりが楽しかったら…それは良くないかなって思って…。」
「紫月さんも楽しい?」
「…うん。楽しい。楽しくて、美味しくて…そうだね、一人じゃきっと味わえなかったタイプの気持ちなのかなって。…でも、日向くんも楽しんでくれてるなら…良かった。」
紫月はそっと微笑んだ。笑おうと思って笑ったというよりはむしろ、そのまま出てきたみたいな笑みだった。その笑みにつられるように、日向も小さく微笑んだ。
* * *
同じ本を一緒に眺めて、最後のページまでいった頃には日向との距離にもいくぶんか慣れ、その温かさやほんのりと香る日向の香りにうとうとして、紫月の方はといえば瞼が重くなっていた。
「…ふふ、眠そう。大丈夫?」
「はっ…!ご、ごめんなさい!」
「全然いいよ?腹いっぱいでちょっと眠いよね、わかる。」
「日向くん…も?」
「紫月さんほど眠くはないかも。もしかしてあんまり寝てない?」
「えっ?」
紫月の驚いた顔を見て、日向はまたははっと声をあげて笑った。
「さっきから一生懸命欠伸、噛み殺してるなーって。満腹からくる睡魔だけじゃなくて、睡眠不足かなと思って。」
「…あの、本当にいつも鋭いよね、日向くんって。」
「まぁね。なんていうか、じっくり見ちゃう方だからかも。無意識のうちにも、ね。」
「…じっくり見ても、わからないことばっかりだよ?」
「まぁそれは、営業職のなせる業ってことで。それでさ、眠いなら寝ちゃってもいいよ。30分くらい寝たらすっきりしそうじゃない?」
「えっ…いや…悪いよ、だって…。」
「ちょっと寝て元気になったらデートは延長できるけど、眠いまんまの紫月さんを連れまわすのはちょっと気が引けるんで、ここで回復してくれたらいいなっていう提案。どう?」
あくまで軽いトーンで言ってくれていることがわかるし、何より『提案』と言われると気が楽だった。『こうしなさい』でも、『なぜ選べないの』でもない。日向のくれる提案はいつだって優しい。紫月は眠気に抗えなくて、言うべき言葉を決めた。眠いまま自分がどこまで頑張れるかも不安だった。それに、今日のデートをすぐ終わりにはしたくない程度には名残惜しさがあった。
「…ちょっとだけ、目を瞑ってても…いい、かな…?」
「うん。30分くらい経ったらちゃんと起こすから、時間気にしないでゆっくり休んで。」
「…うん。ありがとう。」
なるべく日向に迷惑をかけないようにと、紫月は静かに首をまっすぐ落とした。横になっているわけでもないのだから、深く眠りすぎはしないだろうと予想して、そのままゆっくり目を閉じた。
* * *
10分も経った頃だろうか、日向の左肩にふと重みが増した。微かに触れるような、触れないような距離でいた紫月が少しだけ姿勢を崩して日向の肩にもたれていた。一緒に同じ本を読んでいた時に香った紫月の、香水とも違う甘くて柔らかな香りが近くなった。
(…疲れちゃった?…服も悩んでそうだったし…昨日眠れなかった…かな。)
あまりに軽く、それでいて初めて感じる重みだった。以前の紫月だったらきっと、ここで眠るという選択肢は取らなかったかもしれない、なんてことを思う。そんなことを『ただの同期』である自分に見せるわけにはいかない、と必死に耐えている紫月の様子が脳裏に浮かんだ。おそらくこのまま起きたら、驚いてパッと離れてしまうだろうが、無意識の中だったらこうやって安心して体重を預けてくれることが嬉しくて、本を読むふりをしながらチラチラと紫月の様子を窺ってしまう。眠っているのだからずっと見つめていたって本人は気付かないのに、ずっと見つめていたらもっと気持ちが降り積もってしまいそうで、そう易々とはできなかった。
(…可愛い人、…なんだよなぁずっと。…でも、こうやって二人っきりのときに可愛いなんて言ったら…距離詰めすぎてびっくりさせちゃうかも。)
マグカップ一杯分の相談を受けた6月の帰り道。今まで見ることができなかった『可愛い』紫月を見て、『可愛い』という気持ちと言葉が同時に零れてしまった。あの日以来、可愛いと思うことは何度もあってもあえて言わずに来た。混乱させたいわけでも、急に意識してほしいわけでもなかったからだった。ただ、紫月の心の近くに少しだけ居させてほしいだけ。それは前も今も変わっていない。変わったことといえば、前よりも紫月が自然に笑ってくれるようになったこと、二人でいるとき、最初は緊張していても比較的すぐ、その緊張が解かれるようになったことの二つかもしれない。そんな些細な変化が嬉しくて、見つける度にまた募る。『可愛い』と思う気持ちも、『頑張りすぎなくていいよ』という気持ちも。
(…休んでいいよ。一緒に休もうよ。こうやっていつでも、預けてよ。)
直接はまだ言えない気持ちを心の中でそっと溶かしながら、日向は静かにページをめくった。
「…あの。」
「ん?」
「えっと、日向くんはちゃんとその…楽しめてます、か?」
紫月は色々な本を手に取れることもそうだが、このふわふわのソファに座ってゆったりと時間を過ごせることも、目移りしてばかりの本棚が無限に思えるくらいにあることも何もかもが楽しい。しかし紫月ばかりが楽しいのではデートとしては失敗だ。
「うん。ずっと楽しいよ。こんな充実した休日、なかなかないかも。」
「…ほんと、に?」
不安がすぐに前に出てしまう。日向はずっと笑っているし、嫌そうな顔をしていたことなんてなかったのに、本に少し没頭してふとしたタイミングで隣に日向がいることを思い出すと、こんなデートで大丈夫なのかと心配になる。
「うん、本当。本もさ、久しぶりに触ったけど、触っちゃえば読めるもんだね結構。写真が多めなものばっかり取ってきてるってのもあるとは思うけど。」
「…何の写真?」
「ん?ああ、なんか世界の図書館を集めてるっぽい。すごいよね、夢がある。」
日向がページをぺらぺらめくった。海外の図書館の写真と解説が載っている本らしい。このブックカフェにあるものよりもはるかに大きな本棚が、それこそ映画のような配置で並んでいる。紫月は思わず身を乗り出していた。
「…す…すごい…。」
「ね。一緒に見る?」
「え、えっと、邪魔じゃ…ない?」
「うん。邪魔なんかじゃないよ。紫月さん、ちゃんと見える?」
「う、うん。ありがとう。」
身を乗り出したせいで日向の左肩に紫月の右肩が触れた。しかしそれ以上距離を取ると本の中身は見えなくなってしまう。緊張する胸を押さえ、紫月はページに集中した。
「…ちょっとした遊園地じゃない?こんな大きさなら。」
「そうかもしれないね。ちゃんと立ち止まっちゃったら1日では回り切れないかも。」
「ね。…今日ここに来なかったらさ、こういう場所があるって知らなかったし、世界にはこんなに綺麗ででっかい図書館があるってことも知らなかった。知らないことに出会うとなんかちょっとだけ得した気分っていうか、賢くなった感じっていうのかな。そういうのがあって面白い。だから楽しいよ。紫月さんが楽しいって思うもの、見せてもらえて嬉しいし。他に心配事はある?」
「えっ?」
「ずっと楽しそうなのに、時々思いつめたみたいな顔になるから、何考えてるのかなって思ってた。俺が楽しめてるか心配してたんだね。」
そっと耳に響いた日向の言葉が優しくて、柔らかくて、胸の奥がじんとした。
「…私ばっかりが楽しかったら…それは良くないかなって思って…。」
「紫月さんも楽しい?」
「…うん。楽しい。楽しくて、美味しくて…そうだね、一人じゃきっと味わえなかったタイプの気持ちなのかなって。…でも、日向くんも楽しんでくれてるなら…良かった。」
紫月はそっと微笑んだ。笑おうと思って笑ったというよりはむしろ、そのまま出てきたみたいな笑みだった。その笑みにつられるように、日向も小さく微笑んだ。
* * *
同じ本を一緒に眺めて、最後のページまでいった頃には日向との距離にもいくぶんか慣れ、その温かさやほんのりと香る日向の香りにうとうとして、紫月の方はといえば瞼が重くなっていた。
「…ふふ、眠そう。大丈夫?」
「はっ…!ご、ごめんなさい!」
「全然いいよ?腹いっぱいでちょっと眠いよね、わかる。」
「日向くん…も?」
「紫月さんほど眠くはないかも。もしかしてあんまり寝てない?」
「えっ?」
紫月の驚いた顔を見て、日向はまたははっと声をあげて笑った。
「さっきから一生懸命欠伸、噛み殺してるなーって。満腹からくる睡魔だけじゃなくて、睡眠不足かなと思って。」
「…あの、本当にいつも鋭いよね、日向くんって。」
「まぁね。なんていうか、じっくり見ちゃう方だからかも。無意識のうちにも、ね。」
「…じっくり見ても、わからないことばっかりだよ?」
「まぁそれは、営業職のなせる業ってことで。それでさ、眠いなら寝ちゃってもいいよ。30分くらい寝たらすっきりしそうじゃない?」
「えっ…いや…悪いよ、だって…。」
「ちょっと寝て元気になったらデートは延長できるけど、眠いまんまの紫月さんを連れまわすのはちょっと気が引けるんで、ここで回復してくれたらいいなっていう提案。どう?」
あくまで軽いトーンで言ってくれていることがわかるし、何より『提案』と言われると気が楽だった。『こうしなさい』でも、『なぜ選べないの』でもない。日向のくれる提案はいつだって優しい。紫月は眠気に抗えなくて、言うべき言葉を決めた。眠いまま自分がどこまで頑張れるかも不安だった。それに、今日のデートをすぐ終わりにはしたくない程度には名残惜しさがあった。
「…ちょっとだけ、目を瞑ってても…いい、かな…?」
「うん。30分くらい経ったらちゃんと起こすから、時間気にしないでゆっくり休んで。」
「…うん。ありがとう。」
なるべく日向に迷惑をかけないようにと、紫月は静かに首をまっすぐ落とした。横になっているわけでもないのだから、深く眠りすぎはしないだろうと予想して、そのままゆっくり目を閉じた。
* * *
10分も経った頃だろうか、日向の左肩にふと重みが増した。微かに触れるような、触れないような距離でいた紫月が少しだけ姿勢を崩して日向の肩にもたれていた。一緒に同じ本を読んでいた時に香った紫月の、香水とも違う甘くて柔らかな香りが近くなった。
(…疲れちゃった?…服も悩んでそうだったし…昨日眠れなかった…かな。)
あまりに軽く、それでいて初めて感じる重みだった。以前の紫月だったらきっと、ここで眠るという選択肢は取らなかったかもしれない、なんてことを思う。そんなことを『ただの同期』である自分に見せるわけにはいかない、と必死に耐えている紫月の様子が脳裏に浮かんだ。おそらくこのまま起きたら、驚いてパッと離れてしまうだろうが、無意識の中だったらこうやって安心して体重を預けてくれることが嬉しくて、本を読むふりをしながらチラチラと紫月の様子を窺ってしまう。眠っているのだからずっと見つめていたって本人は気付かないのに、ずっと見つめていたらもっと気持ちが降り積もってしまいそうで、そう易々とはできなかった。
(…可愛い人、…なんだよなぁずっと。…でも、こうやって二人っきりのときに可愛いなんて言ったら…距離詰めすぎてびっくりさせちゃうかも。)
マグカップ一杯分の相談を受けた6月の帰り道。今まで見ることができなかった『可愛い』紫月を見て、『可愛い』という気持ちと言葉が同時に零れてしまった。あの日以来、可愛いと思うことは何度もあってもあえて言わずに来た。混乱させたいわけでも、急に意識してほしいわけでもなかったからだった。ただ、紫月の心の近くに少しだけ居させてほしいだけ。それは前も今も変わっていない。変わったことといえば、前よりも紫月が自然に笑ってくれるようになったこと、二人でいるとき、最初は緊張していても比較的すぐ、その緊張が解かれるようになったことの二つかもしれない。そんな些細な変化が嬉しくて、見つける度にまた募る。『可愛い』と思う気持ちも、『頑張りすぎなくていいよ』という気持ちも。
(…休んでいいよ。一緒に休もうよ。こうやっていつでも、預けてよ。)
直接はまだ言えない気持ちを心の中でそっと溶かしながら、日向は静かにページをめくった。



