紫陽花の憂鬱

「うー…ん。」
「悩んでるね、日向くん。」
「え、紫月さん決まった?」
「えっと、一応…?」

 お昼を少し過ぎた時間になった。カフェというくらいなので、もちろん中で食事をすることもできる。午前中は各々が選んだ本を二人掛けのソファに座って読んでいたが、お昼時になったため一度本を片付け、食事用のテーブル席に移動した。
 紫月は以前からこのカフェのことは知っていて、よく調べてもいたため、もしここで食事をするならということもぼんやりと考えてはいた。そのため、比較的スムーズに決めることができたのだが、日向はというとメニュー表とにらめっこする姿から察するにどうやら本格的に悩み始めているようだ。

「うわごめん、待たせて!お腹空いてるよね?」
「あ、いや、そこまで切羽詰まった状況じゃないから大丈夫だよ。珍しいね、なんか日向くんが悩むのって。前に居酒屋とか行った時は割とポンポン頼んでたような…。」

 紫月がそう言うと、日向はメニュー表から少しだけ視線を外して、紫月を見つめた。

「んーだってさぁ、居酒屋はまた行こうと思えば行けるじゃん?帰り道の途中のとこだし。でも今日は初デートだし?…悩んじゃうよね、何でも。あと、こんなにいっぱいメニューあるって思わなかったし。うーん…ちなみに紫月さんは何にするの?」

 『初デート』という言葉が妙に耳に残って、何となく顔が熱い気がする。しかし聞かれたことには答えなきゃと気持ちが焦って、そのままの顔で日向と目を合わせた。

「えっと、このほうれん草とサーモンのキッシュと今日のスープのセットにしようかなって思ってて。」
「俺が悩んでるやつ1個目だ。」
「あっ、そ、そうなの?」
「うん。キッシュ、たまーに食べたくなる。」
「ふふ、うん。なんだかわかる気がする。自分で作ってまでは食べたいってならないけど、たまにね、食べたくなるよね。」
「うん。わかるわかる。そういうもの、キッシュって。でもさぁ、この包み焼ハンバーグも美味そうじゃない?このパンもさ、絶対一回焼いてカリカリにしてくれてるやつかなって。」

 日向が指をさしたのは、どうやら一番人気のメニューである包み焼ハンバーグセットだった。ライスかパンかは選べるようだったが、添えられているパンは確かに手作り感があって美味しそうに見える。

「…あの、キッシュ、一口食べる?そうしたら日向くんはどっちも食べれない?」
「え?」
「あっ、も、もちろん一口じゃなくて半分とかでも大丈夫!いっぱい食べてくれて大丈夫なんだけど…。」

 一口なんて提案、ケチだと思われてしまっただろうかと考えて慌てた言葉たちが紫月の口から滑り落ちる。

「…いいの?」
「え?」
「半分は貰いすぎだから遠慮するけど、一口貰っちゃっていいの?」
「も、もちろん。」
「じゃあ紫月さんもハンバーグ、一口貰ってね?」
「へっ?」
「だって俺だけ貰ったら不公平でしょ。美味しいものはシェアしようよ。もちろん、独り占めしたいときはそれでいいしさ。紫月さんが今日はシェアしたい気分っていうなら、シェア、しよう?」
「…は、はい…。」

 紫月が頷きながら返事をすると、日向は嬉しそうに微笑んだ。

* * *

 ホイルで包まれたハンバーグが到着すると、日向の目は子供のように輝いた。そんな姿は会社で見たことがないため、紫月は込み上げた笑みを隠すことができなかった。

「え?」
「…ううん、ごめんなさい。」
「なんか笑われるようなことしてた?あ、なんかもう服に飛ばしてる?俺?」
「ううん、全然。まだ食べてないし、日向くん。そうじゃなくて、そんなにワクワクしながら開けてもらえたら、包み焼ハンバーグも本望だろうなって。」
「紫月さんに笑われるくらいガキっぽかった?もしかして。」

 紫月は『ううん、そんなことない。』と首を横に振った。今日はずっと、日向のことを自分の先を歩く同期ではなくて、まるで隣を歩いてくれている同い年のように感じる。それは日向の笑みが職場でのものよりも幼く見えるからなのかもしれない。

「包み焼ハンバーグにも感情があるって考えるの、紫月さんっぽいね。」
「…へ、変なこと言った?」
「変じゃなくて、紫月さんっぽいことだよ、そういうの。視線が優しいんだよね、紫月さんは。だからシェアしようって言ってくれたわけじゃん?というわけで、最初の一口を進呈します!」
「えっ!?」

 ホイルの真ん中を裂き、楕円形のハンバーグからは湯気が立ち上っている。湯気と一緒にデミグラスソースが紫月の食欲を刺激した。

「い、いや、最初の一口は日向くんが食べた方が…。」
「俺が口つけた後でも平気?」

 そう問われて、これはいわゆる『間接キス』というものになってしまうのではということに思考がたどり着いた。

「え、えっと…そ、そこまで考えて…なかった…そ、そっか。じゃああの、キッシュもハンバーグもまずは日向くんに食べてもらって、私はその後のキッシュを貰えれば…。」
「それは俺が欲張りすぎじゃない?あ、じゃあさ、紫月さんの分のハンバーグ、俺切るから、紫月さんは俺の分のキッシュ切ってくれる?それ交換しよ。」
「そ、そっか。そうだね。えっと、じゃあ日向くんどのくらい食べたい?」
「一口分!絶対大きく切っちゃダメだよ。大きくしたら俺もハンバーグ大きくするからね。」
「は、はいっ!」

 紫月はキッシュの先端部分を静かに切った。ほうれん草もサーモンもちゃんと乗っている。

「あ、ちゃんと同じくらいだ。はい、紫月さん。フォークぐさっていっちゃってください。俺もキッシュ貰うし。」

 日向の持つフォークが紫月の切った分のキッシュに刺さる。紫月も真似をして、一口分のハンバーグにフォークを刺した。

「いただきます。」
「い、いただきます…。」

 ぱくりとハンバーグを口に含むと、デミグラスソースの香りが鼻に抜けた。じゅわっと肉汁が口の中に溢れて、久しぶりにお店のハンバーグを食べた紫月はもぐもぐと動く歯を止められなかった。

「めちゃくちゃもぐもぐしてる、紫月さん。」
「あの、すごいの…!お肉のじゅわっと感が。」
「あ、やっぱり?切ったときにそうかなって思ってた!キッシュも美味いよ。2切れくらいパクパクいけそうなくらい美味しい。」

 日向はハンバーグを口に入れた。さっきの紫月同様にもぐもぐと口を動かしている。ごくんと飲み込むと日向の口からは『…うまぁ…』という声が漏れた。
 キッシュは塩味が丁度良かった。サーモン自体の味もほうれん草の味もしっかりと感じられて、程よいボリュームにお腹の中が膨れていく。じゃがいもの冷製スープも普段なかなか食べないものであるため、冷たさも味も新鮮だった。
 日向の手元では表面をカリカリに焼かれた小さくて丸いパンが千切られた。パリパリと音が鳴って、香ばしさが紫月の元まで飛んでくる。

「やっぱりちょっと焼かれてた?」
「うん。俺の読みは合ってた。食感、フランスパンなんだけどさ、フランスパンって長くて斜めに切るやつのイメージじゃない?」
「そう…だね、言われてみると。でも確かに、見た目は丸いフランスパンだね。」
「味はまんま、フランスパンだよ。デミグラスソースつけると美味いんだよね、こういうしみこむ系のパンって。」
「うん。だからビーフシチュー作ったときはフランスパンにしちゃうことが多いかも。」
「え、紫月さん、ビーフシチュー作れるの?」
「あ、えっと、私じゃなくて電気圧力鍋が作ってくれるから…。」
「いやいや、家でビーフシチューを作ろうって思うことがすごくない?」
「すごい…のかな?」

 そんなに頻繁には作らないが、食べたくなったら作っている。それをすごいと思ったことは今まで一度だってない。

「すごいよ。俺、自分で作ったことないし。全く料理ができないってことではないけど、手が込んでそうなイメージある、ビーフシチュー。」
「そんなことないよ。具材入れてピッってするだけで出来上がっちゃうよ。」
「…何?今の時代、そんな感じなの?」
「今の時代って…日向くんも現代人でしょ?」
「遅れてるかも…時代にあんまりついていけてない可能性が出てきた…。」
「日向くんが時代についていけてなかったら、私の方はもっと遅れちゃってるよ。」

 職場ではずっと完璧な日向の、完璧じゃない部分がまた見つかる。見つかるたびに、心の奥が少しホッとする。失礼かもしれないと思うから口には出せないけれど、紫月の心は確かに『完璧ではない』日向に安堵を覚えていた。