若葉が青々と生い茂り、何とも言えないざらりとした空気感に、梅雨の知らせが頭を過る。
一雨ごとに感じるのは、不快感の前のちょっとした歓喜。
今年は特に、気温や気圧の乱高下もあり、気持ちはアトラクションをこれでもか、と詰め込んだ遊園地にいるような気分だった。
じっとりとした空間。
その上にある、何かを織り成し幾重にも重なる厚い雲の層。
けれど…その雲に映るのは、淡いピンク色の光。
その正体は分からないし、そもそも雲に光が反射して、色を発色するというのは、どうも似つかわしくない表現かもしれない。
そして、どこか烏滸がましさも感じさせる。
それでもその吸い込まれるような色に、心が何処か魅せられた。
坩堝が、甘いと言うならば、きっとこんな体感をそう呼ぶのだろう。
「憲司くん?」
そっと俺の名前を呼ぶ声に、はっとして振り返る。
「…どうした?」
そう、突然の後ろから流れ込む聞き慣れた声に、一瞬ぎくりと肩が震えたのだ。
別に悪い事をしていた訳ではないのに、言葉を詰まらせてしまった俺に対して、彼女は気にする事なく、のんびりと間延びした会話を続けてくる。
「最近さ、凄い過ごしやすいよねぇ。不思議なことに」
「え…?」
俺は、いまいち彼女の言いたい事の意図が掴めない。
「なんかね?昔…それこそ少し前までは、4月も5月も、そして其処に連続してやって来るジメジメした時期って嫌で嫌で仕方ないって、そういう記憶しかなかったのに…。ここの所、なんか凄く過ごし安いなぁって」
俺の方を一度も見ずに、そう語る彼女の額には薄っすらと汗が見える。
俺は、くすりと笑う。
「そう?…こんなからに空梅雨になりそうに?…まぁ、美咲らしいっちゃ、美咲らしいけど。それでも、唐突に言うことか?それ?…マジで美咲って不思議だなぁ」
さっき、感じたような鬱蒼とした負の感情が、すっと消えた気がする。それでもまだ、ざらざらとした小さな粒を掴んだような、手の感覚は払拭出来なかった。
「てか、んー…。なんかさ、なんとなくなんだけど。今の憲司くん、もしかして郷愁っていうの?そんなのに迷い込んでたりする?」
彼女の羽のような問いかけに俺は、深く呼吸を落としてから、考え込んだ。
「えー?ノスタルジック的な?んー…そういう事なのかなぁ」
俺は、最近伸ばし始めたヒゲをふむ、と撫でつつ彼女を見つめる。
「俺が郷愁を背負ってるっていうより、美咲の方がなんか、ノスタルジックなシーンの中にいる気がするけどなぁ…」
そして、互いに分厚い空へと視線を向け、ほんの少しの間、その『胸の奥に眠っている謎に包まれた』気配に思いを馳せた。
「ねぇ?6月11日に降る雨ってね?入梅で、憂鬱に感じるけれど本当は、人の想いを浄化させる効果のある雨らしいよ?」
「へぇ?そう…浄化、ね…」
また与えられた質問に俺は、その”浄化"という言葉をゆっくりと心の中で咀嚼する。
そして、反芻してから彼女の方へ体を向けた。
「美咲は、こんな陰鬱とした世の中で、人の想いが浄化されると思う?」
「んー…そうだねぇ…」
彼女もまた、俺と同じ様にするり、と顎を一撫でをしてから、ほんの少しだけ考え出した。
「憲司くんが、如何感じているかは分からないけれど…。私はこの殺伐してそれ以上に混沌とした世界の中で、人々が其々…例え小さくても、未来予想図を掲げて、希望を見出す時に浄化というものが、発動させるんじゃないかなって」
そう思うよ、と少し照れた様に、耳に髪を掛けながら俯く彼女の姿を何処か眩しく感じた。
俺は粒がまだ残る心の中で、物想いに耽る。
人々が行き交う中、その雑踏に紛れ込んで、彷徨い右往左往する事が、生きて行くに欠かせない人生上に敷かれたレール。
それをどうにかして打ち壊し、この溺れそうな程の濃密な闇を取り払いたい。
そして、もし、此処から…彼女と抜け出せたら。
彼女の手を取って、光に溶けて行けるような、世界に行けるとしたら…。
そんな事を延々と繰り返し心の深淵の中で、自問自答していると、彼女がちょん、と俺のシャツの摘んできた。
「憲司くん?顔、怖いよ?」
「あ…ごめんごめん。ちょっと考え込んでた」
恋い焦がれる人が傍にいるのに、こんな事を考えていては駄目だと思い、俺は彼女の手を絡めとる様にゆっくりと握り締める。
それに対して、彼女はほんのりと頬を染める。
その頬をぷに、と摘んでもう一度、何でもないという事を告げる。



