『ある程度の社会的知識は必要だからな。教えておいて問題はないだろう』
『わかった、それじゃあひとまず、実験体345番と346番には、自分の名前と書き方だけ教えておく』
いいか、お前の名前は、こう書くんだ。
「刹」「菜」
『わたしのなまえは……せつな』
『そうだ。覚えておけよ』
『……はい』
教えられた文字が書いてあるルーズリーフを、抱きしめて。
『せつな』
名前ごと、噛み締めるように記憶に刻んだ。
名前も顔も声も知らない、私を産んだ親にまつわる唯一の事実である「私の名前」。
それは紛れもなく温かい優しさで、私にとっての宝物だったから。
だから、きっと覚えていた。
だから、私は、親からもらった宝物だけは、なにがあっても忘れなかったんだ――……
*
「刹菜」
「はい。なんですか、尊都さん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
夕食後、穏やかな空気が流れていた私たちの沈黙を、尊都さんが破った。
「ひとつ、訂正しなくちゃいけないことがある」
「なんでしょう?」
尊都さんは、私の両手をそっと取った。
指の一本一本をゆっくりなぞって、優しく絡めて、握る。
なんだか恥ずかしいけど嬉しいのも事実なので、私は照れつつもされるがままだ。
「……昌之はさ、俺が一番絶望するやり方について『恋人に裏切られて撃たれて死ぬ』ことって言ってたよね?」
「はい」
「あれ、違うんだ。それは俺にとって一番辛い死に方じゃない」
尊都さんによって絡め取られた私の手は、そのまま尊都さんの方向へ引き寄せられていく。
そして恭しく私の手の甲に口付けた尊都さんは、私を熱い瞳で射抜いてこう言った。
「刹菜という唯一を目の前で失うことが、よっぽど辛い」
「尊都さん……」
「だから死なないでね、刹菜」
「それは、もちろんですよ」
それが尊都さんにとって、一番の苦痛だというのなら。
私は絶対に、尊都さんより前には死なないって約束しようじゃないか。
「……好きだよ、刹菜。大好き。俺の世界に、『楽しい』をくれてありがとう」
尊都さんは、ありったけの愛と甘さと熱を込めて、私を愛おしそうに見つめてくれた。
「俺だけじゃ得られなかったものを与えてくれて、ありがとう。出会ってくれて、ありがとう」
お金も権力も実力も頭脳も地位も名誉も、すべて持っていた尊都さん。
そんな尊都さんでさえ手に入れられなかったものを私が与えられたというのなら、それはとっても嬉しいことだ。
何より、それを私だけが与えられるんだと思うと、やっぱり生きててよかったな、なんて。
「私こそ」
だから、私も尊都さんへの愛を込めて手を握り返す。
「私は貧乏で、権力も地位も名誉もなくて、本当に何も持っていない人間だと思っていました」
家族もいない。満足に寝られる家だって持っていない。
じゃあ逆に何を持っているのと聞かれたら、貧乏生活中の私はきっと「何も持っていない」と答えただろう。
「でも、私は大切なものを持っていたんだなって気づきました。大好きなみんなが大事にしてくれた『私』自身が、まだ残ってた」
「……そうだね」
「それを気づかせてくれたのは、尊都さんなんですよ」
もう何も失うものはないと思っていたけど。
私の名前や、私が生きている事実に、あーくんや私を産んでくれた両親の想いが詰まっていると、ようやくわかった。
それは尊都さんが私自身を大切にして、私自身に価値があるって言ってくれたからだ。
「だから、ありがとうございます。私を見つけてくれて。私を選んでくれて」
冷徹で残酷に見えるマフィアのボスのご主人様は、孤高で歪で神々しくて、遠い世界にいるように見えていた。
だけど本当は優しいし、お茶目だしいじわるだし、不器用だし、かっこいい。
そんな一面を見つけられて、心からよかったと思う。
「大好きですよ、尊都さん」
「……うん」
そう言うと、尊都さんから優しいキスが降ってきた。
これまでの人生を丸ごと包むような温かい口付けは、私の傷すべてを溶かして、和らげていく。
「ん……」
しゅるりとネクタイを解く音が聞こえた。
薄く目を開けば、尊都さんがネクタイを緩め、ワイシャツから鎖骨を覗かせている。
美しい骨格の造形からはあり得ないほどの色気が溢れ出ていて、私はすぐに目を閉じてしまった。
「刹菜」
だけど名前を呼ばれて、すぐに目を開く。
そして返事する間もなく、ベッドに押し倒されてしまった。
びっくりしている間にまた唇が落ちてきて、キスが始まる。
深くて甘いキスの連続に、私は体の力がどんどん抜けていくのを感じた。
「……いいの?」
そんな私を見て唾をごくりと飲んだ尊都さんが、一言。
「抵抗しないなら、このままぜんぶ喰うけど」
「……喰べてくださいって、言ったら?」
外れかけのネクタイを完全に取って微笑めば、尊都さんはくしゃりと満面の笑みになってまた私にキスをした。
どうやら、同意は伝わったらしい。でも、こんなときにも素直になれない私がちょっと恥ずかしかった。
「それじゃあ、おいしくいただこうかな」
どうぞ、存分に――なんて、言えるわけないけど。
代わりに尊都さんをぎゅっと抱きしめると、嬉しそうにふふっと笑ってくれた。
体の全ての力を解かれ、暴かれ、尊都さんの甘い毒に侵食されて。
溶けて蕩けて、意識があやふやになっていく。
そんな中で、私は尊都さんにもう一度、気持ちを伝えた。
「……だいすき」
*



