笹原 敏之。
それは、私たちの大嫌いな人の名前。
私たちを苦しめた人の名前。
私たちにひどいことをする人の名前。
『345番、出ろ』
私たちは、厚くて小さい窓が一つだけついた、狭い部屋に押し込められていた。
私とあーくんは2人とも毎日痛いことをされていて、毎日泣きそうになっては慰め合っていた。
『……』
呼ばれた私はあーくんと視線を交わして、いってきます、と口だけ動かして。
私にとっての地獄が、その日も始まった。
『……いや……ッ!!!!』
あの頃を思い出した今なら、そして真相を聞いた今なら、わかる。
私は確かに実験体だった。いろいろなものを注射され、血を抜かれ、変な液体を飲まされ、ときには手術だって受けた。
体がうまく適応しなかったときは、何時間もずっと吐いたりもした。
痛くて気持ち悪くて、苦しくて。
慣れるはずなんかない。ずっと地獄の中だった。
『345番の血液反応分析完了。適応と判断』
『やっと成功した……!筋肉の状況は⁉︎』
『最高値を更新。目標を達成しています』
『やったぞ!!』
でもその日は、いつもと違った。
私から抜いた血を機械に入れたとこまではいつもと同じ。違ったのは、機械に移った文字列を見て、敏之たちがとっても喜んでいたこと。
私にはよくわからなかったけど、「成功」って言っていたから、敏之たちが私にしていることがうまくいったらしいことは、わかった。
実はこの前日、あーくんも同じ状況だったらしい。
でも「成功」したからといって地獄がなくなるわけじゃないだろう、とも言っていた。
「数少ない成功体のうちの1人」……昌之が言っていた通り、この日、確かに私への実験が成功したのだ。
そして、あーくんもまた、成功体のうちの1人だったということだ。
そうして、私たちは人類の域を越える身体能力を手に入れた。
体育祭のリレーで追い上げたのも、私を攫った暴走族の不良を気絶させたのも、全部それで手に入れた力のおかげ。
だけど、私への実験が成功した後も、あーくんが言った通り「実験」が終わることはなかった。
目標が達成されたら新たな目標を定める、当然のことだろう。
だからずっと、絶望していたのだ。
私たちは永遠にこの苦痛しかない地獄に居続けるしかないのだと。
脱走を考えたことは、もちろんある。
だけど私たちの部屋の壁や扉は、どうやっても壊れなかった。
身体能力増強の実験が成功した私やあーくんがいる部屋なのだから、それも当たり前だけど。
だからいつまでも、私たちはあの狭い部屋に閉じ込められながら、痛みに耐えていく人生だと思っていた。
……「あの日」までは。
「お前と碧が逃げたあの日は、どこかから兄さんの研究内容を嗅ぎつけた榊坂 尊都とその親が施設を襲撃に来た日だったんだよ」
「……尊都さん、が……」
そう、そう言えばあのとき、敏之は妙にイラついていた。
『クソが、あの男……!』
ダンッと拳をそばにある台に叩きつけて、大きな声で悪態をついていた敏之。
「あの男」が尊都さんだったのか、その親だったのか。わからないけれど、なんとなく尊都さんの親のことを言っていたんだろうとは思う。
尊都さんは、まだそのときは子供だったはずだから。
『忌々しい真似を……!隔壁を降ろせ!奴らをこいつらに触れさせるな!』
私は、ただ怒っている彼を見つめて、言葉を分析して。
招かれざる客が来たのだ、ということだけを把握した。
だけどそのときだ。私にその考えが浮かんだのは。
『……あーくん』
『刹菜?』
『ふしんしゃさん、来たんだよね?」
『そう、みたいだな』
小さい声で、ひそひそと話した。
いつもはすぐ「なにを話しているんだ?」って敏之たち研究員が聞いてくるのに、今回ばかりは誰も、私たちの会話に気づかなかった。
誰もが、尊都さんたちのことばかり考えていたから。
『なら、私たちは――』
今なら誰も、見ていない。
それなら私たちにも、できることがあったのだ。
私とあーくんは、2人で力を合わせて部屋から脱出した。
流石に固かったけれど、扉そのものではなく、扉の留め具に狙いを変えて留め具を壊し、できた隙間から抜け出した。
そのままダクトや廊下を通り、通い慣れた実験室を通り過ぎてひたすら走る。
できれば他の子たちも逃してあげたかったけど「成功体」である私たちは部屋の位置が他の子たちと離れているみたいで、みんなのことを見つけられなかった。
そうして逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて。
あと少しで、敏之たちの敵側の陣地に入る――そう思ったときだ。
『待て!!!逃げるな!!!』
まあ、当然バレるよね。
もちろんそこまで持ち堪えられたことに驚くくらいだ。
追いかけてくる研究員たちに見つかって、私たちは青ざめた。
なにしろ彼らは銃やナイフを持っていたし、興奮していてとっても怖かったのだ。
狂気しかない目を血走らせながら走ってくる姿は、私にとっては悪魔のようだった。
その恐怖が、きっとあーくんにも伝わってしまったんだろう。
あーくんは、冷静さを失って恐怖に囚われそうになっている私に、こう言ったのだ。
『お前は先に逃げろ、刹菜』
『え……?』
『俺はあいつらを倒してから追いかける。先に行ってろ』
『いや、でも!』
『逃げろ!』
あーくんがそのとき出した声は、まるで私に縋るみたいな声だった。
それなのに優しい声で、いつもみたいに、まるで私の本物のお兄ちゃんみたいな顔をして。
『なにかあっても刹菜だけは絶対に逃すよ』
『あーくん……!』
『頼むから、お前だけでも――幸せになってくれ』
あーくんは無慈悲にも優しく、私の背中を押して。
私だけを、逃した。
ならばせめて私は無事でいなければと私はさらに逃げて逃げて、郊外の地下にあった研究施設から、私はこの街にたどり着いた。
そのあと、地獄から逃げ切って少し安心したところで何かの糸がぷつりと切れて、私は倒れてしまったというわけだ。
その次に目覚めたときには、私は「私」の全てを忘れていた。
きっと、それは「私」が私を守るための、防衛反応だったのだと思う。
忘れてしまえば、辛い思いをしなくて済むから。
だからきっと、私は忘れることを選んでしまった。
「あの後ね、僕が直々に碧を迎えに行ってあげたんだ」
昌之は、まるで遠足の思い出を話すかのように楽しそうに笑った。
「兄さんは、榊坂に捕まったせいで使い物にならなくなっちゃってたから。『成功体』のうち片方だけでもちゃんと捕まえておかないとって思ってね」
「…………」
あーくんは、私と昌之の間に立ったまま、何も話さない。
私のせいであーくんは昌之に捕まったんだろうに、私を責めることもしない。
「みどり」と名乗っているときからそうだった。いや、それこそずっと昔から。
あーくんは、私の幸せを願ってばかりだ。
そして私は、そんなあーくんに甘えてばかり。



