――私の名前は、刹菜。
刹那の刹に、菜の花の菜と書いて、刹菜。
……どうして、知っているんだろう。
私を生んでくれたはずの両親の顔も声も名前も、何もかも、覚えていないのに。
どうして、覚えているんだろう。
私はずっと、星に語りかけたくなるくらいずっと、独りぼっちだったはずなのに。
*
さらさら、と丁寧な文字が音も立てずに紙に連ねられていく。
その文字はやがてとある人物の名前を示し、そして文字を書く手は一旦そこで止まった。
「………………」
ここは、俺の執務室。
俺と黒葉と、そしてみどりだけがいるこの空間で、みどりは上質な紙に急に1人の名前を書いた。
笹原 昌之。
その名前に覚えがないわけではない。
だがなぜこの名前を出してきたのか、今は推測しかねている状況だ。ともかく情報が足りない。
だから目線で続きを促しつつ、みどりの意図を探ってみる。
「お前から俺に話しかけてくるなんて珍しいじゃん。どうかしたの?」
「……少し、害虫を見かけた。生活の邪魔だから、駆除してくれないか」
「……ああ、なるほどね」
……ようやく、みどりが話す気になってくれたようだ。
だがわざわざ紙に書いているところを見ると、盗聴される危険があるということだろうか。
となると、もしかしたら…………。
いや、今はこっちが先だ。
きっとみどりは、この「笹原 昌之」が害虫だと言いたいんだろう。
「どんな害虫?」
「厄介なやつでな。こそこそと隠れて中々出てこない」
言葉上では虫の話のように聞こえる言葉を選びつつ、みどりはさらに紙に言葉を綴る。
『お前を潰す機会を狙っている』
「それなら俺直々に駆除してあげようか?」
「頼めるか。放っておくとますます面倒だ」
『目的を果たすために刹菜を使う気だ』
『それから』
みどりは、またもや手を止めた。
だが今回は俺の反応を窺っているわけではなさそうだ。
話そうか、まだ迷っているらしい。
なら、話そうとしてくれているみどりに俺も誠意を見せるまでだ。
俺は自分のペンを取り、みどりに向けて一言だけ書いてみせた。
『刹菜は俺が幸せにする』
「……」
みどりは口をきゅっと結び、また手を動かした。
真実を書かんとするその手に迷いはない。
そしてみどりが文字で伝えてきた内容に、俺は静かに目を細めた。
『刹菜は幼少期の記憶を失っている』
『そして、俺と笹原昌之は、刹菜の幼少期を知っている』
「……お前は、何か欲しいものはある?」
「ない。過ごしやすいのなら、それでいい」
「過ごしやすいのならいい」のは、みどりのことではないように思えた。
きっとみどりは、刹菜が過ごしやすいのならそれでいいのだろう。
だからみどりは、ずっと俺を試していたのだ。
本当に、俺が刹菜を大切に、幸せにできるのかどうか。
だから、刹菜が俺を恋人に選んだことでようやく吹っ切れたように見える。
「わかったよ」
俺はペンを置き、席を立った。
黙っていた黒葉も俺の決断を察したのか、ぽんとみどりの肩を叩いて立ち上がる。
「俺に任せといて」
結局は、なにも変わらないんだ。
俺は父に任された通り、俺と刹菜が愛するこの街を守る。
そして大切な恋人で、今や「榊坂 尊都」の一部でもある刹菜に対しても同じことだ。
街や刹菜に害を与える虫は俺と刹菜で振り払う。
みどりに視線でそう伝えると、みどりは安心したように背をソファに預け、そのまま目を伏せた。



