隣にいる理由を、毎日選びたい

 週の中日、水曜の午後。
  プロジェクト会議が終わり、凛は昼食を取るために外へ出た。
  悠人は別件の社内ミーティングがあり、今日はそれぞれの行動だった。
 向かった先は、会社近くのカフェ。
  凛にとっては、静かで作業ができる“逃げ場”のような場所だった。
 注文を終えて窓際の席に着いたところで──
 「……凛?」
 声をかけられて、振り返る。
 そこに立っていたのは、スーツ姿の男性。
  見間違えるはずがない。数年前、彼女と数ヶ月だけ付き合っていた男――田島 圭吾だった。
 「……久しぶり」
 「本当に。こんなとこで会うなんて。今、ここで働いてるの?」
 「まあ、そんなところ」
 言葉を濁しながら、凛は手元のカップを少し引き寄せる。
 気まずい、というより、ただ「今ここでこれ以上話したくない」と思った。
  だが田島は、悪びれる様子もなく、にこやかに続けた。
 「元気そうで何より。相変わらず綺麗だな」
 「そういうの、言わない方がいいよ」
 「そう? でも、思ったことは言っておかないとね。あのときは、俺のほうが未熟だった。今なら、もう少しちゃんと向き合えた気がする」
 「……あのとき、私の意見に一つも耳を貸さなかったの、あなたよ」
 「凛は、自分の気持ち出さないから。いつも理屈だけで、何を思ってるか分かんなかった」
 それは、かつて何度も繰り返された言葉だった。
 (また、それか)
 「じゃあ、どうして今さら?」
 凛の声は冷えていた。
 「……俺、来月結婚するんだ。その前に、どうしても一言謝りたくてさ」
 「それなら、もう言ったよね。“未熟だった”って」
 「……うん。ありがとう。じゃ、元気で」
 言葉を残して、田島は足早に去っていった。

 その夜。
  プロジェクトの編集作業を終えた悠人は、会議室で一人残業していた凛に声をかけた。
 「お疲れさまです。有栖川さん、今日ちょっと顔色悪いですね」
 「……ばれてた?」
 「はい。明らかにテンションが5%ほど低かったです」
 「細かすぎ」
 凛は乾いた笑みを浮かべた。
 「……今日、昔の知り合いに会ってね。少しだけ、過去を思い出したの」
 「恋愛関係の?」
 「そう」
 素直な返答だった。
 「失礼を承知で聞きますが、未練とか?」
 「ないよ。ただ、“あのときも私は、ちゃんと嫌いだったんだな”って再確認した」
 「……そうですか」
 「それと同時に、少し怖くもなった」
 「何がです?」
 「誰かに“また何も伝わってなかった”って言われるのが。私はたぶん、人を好きになるより、誤解されないことのほうが大事だから」
 悠人はその言葉に、しばらく返すことができなかった。
 だが、ふいにこう言った。
 「有栖川さんが、何も伝えられていないような人なら、今ここにいないと思います」
 「……そう?」
 「僕は、けっこう“伝わってます”。少なくとも、仕事上でのあなたの意思や判断は、明確に見えてますから」
 「それは、あなたが理屈で理解してくれる人だからでしょ」
 「じゃあ、“理屈で伝わる相手”を、もっと信じてみませんか?」
 凛はぽかんとしたあと、噴き出すように笑った。
 「……なにそれ。まじめすぎる」
 「よく言われます。でも、悪くないでしょう?」
 「うん。ちょっとだけ、悪くない」
 その言葉と共に、ふと軽くなった空気の中で、ふたりの関係はまた一歩だけ進んだ。
 それが“恋”なのか、“安心”なのか、それともただの“理解”なのか。
  まだ、その答えは誰にもわからなかった。
 ──第2章・了──