隣にいる理由を、毎日選びたい

 「俺が、恋愛しない理由ですか?」
 撮影帰りのスタジオ近く、カフェの奥の席で、悠人はカップを傾けながらそうつぶやいた。
 向かいの席では、有栖川凛が手帳を開いたまま、顔を上げている。
 「別に深掘りするつもりはなかったんだけど、こういうテーマのプロジェクトに関わってると、ふと気になってしまって。どうして、そこまで“しない”と決めてるのかって」
 「……強いて言えば、恋愛は“不確定要素が多すぎる”からですかね」
 「不確定?」
 「例えば、想定していた相手が急に離れる、感情が変質する、連絡が取れなくなる。計画や日常の安定を破壊する要素があまりに多い」
 凛はふむ、と小さく頷く。
 「感情はコントロールできないものだから?」
 「そうですね。だからこそ、あえて入れない。予定に組み込まない。そうすれば“狂わない”で済む」
 「理屈としては、完璧ね。でも……それって少し、寂しくない?」
 「寂しさは一時的なものです。でも、失望は長く残る」
 悠人の声は淡々としていた。凛はしばし何も言わず、手帳のページを一枚めくった。
 「……私も、似たようなもんかも」
 「そうなんですか?」
 「高校のとき、友達が恋愛でひどい目に遭ってて。自分が傷ついたというより、“近くにいた誰か”が変わっていくのが、すごく怖かった」
 「価値観ごと、別人のように?」
 「うん。好きな人の言うことしか聞かなくなって、昔の仲間のこと、全部後回し。“恋愛は人を幸せにする”ってよく言うけど、私にはどうしてもそう見えなかった」
 凛はストローで氷を転がす。
 「だから思った。“恋なんかしなくたって、ちゃんと生きられる人間になろう”って。別に間違ってないよね?」
 「正しいと思います」
 悠人は即答した。
 「むしろ、それを信じてここにいるんですから」
 「……そうね」
 少しだけ、凛の表情が緩んだ。だが、すぐにいつもの無表情へと戻る。
 「まあ、でも正直、“ここまで同じ価値観の人間がいるんだな”って思ってる。新鮮な意味で、面白い」
 「僕も、有栖川さんと話すのは、無駄が少なくて助かってます」
 「褒められてるのか、それ」
 「もちろん、最大級の賛辞です」
 ふたりの間に、さざ波のような笑みが広がった。
 けれど、その平穏な空気に、別の感情が混じりはじめていることに、どちらもまだ気づいていなかった。

 翌週、オフィスでの打ち合わせの帰り、凛がぼそりと呟いた。
 「ねえ、“絶対に好きにならない”って、保証できる?」
 「できません」
 悠人はすぐに答えた。
 「感情に保証はつきませんから。ただ、努力するつもりはあります。“揺れないように”」
 「努力ね……。そういうのが、できるなら、私も苦労しなかったかも」
 「え?」
 「ううん、なんでもない」
 凛は曖昧に笑って、すぐに踵を返した。
 その背中を見送りながら、悠人は心の奥に引っかかる言葉を抱えたまま、エレベーターのボタンを押した。
 (“揺れない”ことは、果たして本当に可能なのか)
 ──第2章:続く