午後のオフィスは、打ち合わせと会議資料づくりに追われて、わりと静かだった。
悠人と凛は、隣同士でPCに向かい、それぞれ別のタスクを黙々と進めている。
あえて会話を挟まずとも、互いの呼吸は不思議と合っていた。
「……一之瀬さんって、作業中は話しかけられるの、嫌なタイプ?」
「いえ、合理的な話題ならいつでもどうぞ。無駄話は省きたいですが」
「わかってる。じゃあこれは、無駄話ではない……はず」
凛がスクリーンから視線を外し、こちらを向く。
「たとえば、“恋愛抜き”で誰かと長期的な関係を築くって、あり得ると思います?」
「あり得るかどうかで言えば、あり得るでしょう。実際、そういう関係の方が壊れにくい場合もある」
「私も、そう思ってます。恋愛感情って、ある種の“興奮”だから、冷めたら続かないこと多いでしょ?」
「恋愛は消耗戦ですからね。バッテリー切れたら終了」
「でも世の中は、それを“燃え尽きるまで全力で楽しむもの”みたいに言う。……バカみたい」
その吐き捨てるような語調に、悠人は少しだけ目を細めた。
「……何かあったんですか、昔」
「何もなかったら、こんな割り切り方しないでしょ」
凛はそう言って、机の上に置いてあったボトルの水を飲む。
その横顔には、少しの緊張と、かすかな疲れがにじんでいた。
「でも今さら戻る気もない。私は、恋愛しない方が、安定していられる」
「同意します。感情に揺さぶられると、仕事にも生活にも影響が出ますし」
「そう。それなのに、どうしてみんな“恋をしなきゃいけない”って空気に流されるのか……」
「きっと、“していない自分”を否定された気になるんでしょうね。多数派でいたい、という本能」
凛はしばらく黙ったまま、キーボードを軽く叩いていた。
そして、不意に言った。
「あなたとなら、八週間くらい、“恋愛抜き”でちゃんと組めそう」
「“くらい”ってつけましたね」
「油断しないようにって意味よ」
少し笑ったその顔に、悠人もつられて口元を緩めた。
その週末、プロジェクト『Re:frain』のキービジュアル撮影が行われた。
場所は、原宿のスタジオ。コンセプトは「信頼感のある非恋愛ペア」。
「じゃあ、次はちょっとお互いを見つめ合ってくださーい!」
カメラマンの声が響く。
「見つめ合ってって……違和感ないですか? “非恋愛ペア”なのに」
悠人がぼそりと言うと、凛はまっすぐこちらを見据えたまま返した。
「演出だから。目線で“信頼”を出せばいいのよ。“恋”の代わりに、“リスペクト”」
「……その表現、もはや哲学ですね」
「あなたも、ちゃんとやって。撮り直しとか、非効率でしょ」
はいはい、と苦笑しながら、悠人も目を合わせた。
距離30センチ。
ふいに、凛の睫毛が揺れて、その下の瞳が光を含んだ。
(思ったより、表情がやわらかい……)
その瞬間、どこか胸の奥がざらりと揺れた。
──これは、ただの撮影だ。
──仕事の一部だ。
そう、割り切るつもりだった。
だが、レンズ越しの世界は無情にも言葉を残す。
「はい、いいですねー! まるで付き合ってるみたいです!」
「……それは、禁句です」
凛と悠人が同時に言った。
撮影後、駅までの帰り道。
「一之瀬さん」
「はい?」
「さっきの写真……ちょっとだけ、“悪くなかった”って思った」
「それは、表情がうまく出てたって意味ですか?」
「……それもあるけど、“こういう距離感の人がそばにいたら悪くないかも”って、少しだけ」
「まさか、有栖川さんが“揺れた”?」
「揺れてません。“少しだけ”って言ったでしょ」
それ以上、二人は何も言わなかった。
だけどその日から、彼らの距離は、ほんの一歩だけ──
“好きじゃない”の先へ、近づいていた。
──第1章・了──
悠人と凛は、隣同士でPCに向かい、それぞれ別のタスクを黙々と進めている。
あえて会話を挟まずとも、互いの呼吸は不思議と合っていた。
「……一之瀬さんって、作業中は話しかけられるの、嫌なタイプ?」
「いえ、合理的な話題ならいつでもどうぞ。無駄話は省きたいですが」
「わかってる。じゃあこれは、無駄話ではない……はず」
凛がスクリーンから視線を外し、こちらを向く。
「たとえば、“恋愛抜き”で誰かと長期的な関係を築くって、あり得ると思います?」
「あり得るかどうかで言えば、あり得るでしょう。実際、そういう関係の方が壊れにくい場合もある」
「私も、そう思ってます。恋愛感情って、ある種の“興奮”だから、冷めたら続かないこと多いでしょ?」
「恋愛は消耗戦ですからね。バッテリー切れたら終了」
「でも世の中は、それを“燃え尽きるまで全力で楽しむもの”みたいに言う。……バカみたい」
その吐き捨てるような語調に、悠人は少しだけ目を細めた。
「……何かあったんですか、昔」
「何もなかったら、こんな割り切り方しないでしょ」
凛はそう言って、机の上に置いてあったボトルの水を飲む。
その横顔には、少しの緊張と、かすかな疲れがにじんでいた。
「でも今さら戻る気もない。私は、恋愛しない方が、安定していられる」
「同意します。感情に揺さぶられると、仕事にも生活にも影響が出ますし」
「そう。それなのに、どうしてみんな“恋をしなきゃいけない”って空気に流されるのか……」
「きっと、“していない自分”を否定された気になるんでしょうね。多数派でいたい、という本能」
凛はしばらく黙ったまま、キーボードを軽く叩いていた。
そして、不意に言った。
「あなたとなら、八週間くらい、“恋愛抜き”でちゃんと組めそう」
「“くらい”ってつけましたね」
「油断しないようにって意味よ」
少し笑ったその顔に、悠人もつられて口元を緩めた。
その週末、プロジェクト『Re:frain』のキービジュアル撮影が行われた。
場所は、原宿のスタジオ。コンセプトは「信頼感のある非恋愛ペア」。
「じゃあ、次はちょっとお互いを見つめ合ってくださーい!」
カメラマンの声が響く。
「見つめ合ってって……違和感ないですか? “非恋愛ペア”なのに」
悠人がぼそりと言うと、凛はまっすぐこちらを見据えたまま返した。
「演出だから。目線で“信頼”を出せばいいのよ。“恋”の代わりに、“リスペクト”」
「……その表現、もはや哲学ですね」
「あなたも、ちゃんとやって。撮り直しとか、非効率でしょ」
はいはい、と苦笑しながら、悠人も目を合わせた。
距離30センチ。
ふいに、凛の睫毛が揺れて、その下の瞳が光を含んだ。
(思ったより、表情がやわらかい……)
その瞬間、どこか胸の奥がざらりと揺れた。
──これは、ただの撮影だ。
──仕事の一部だ。
そう、割り切るつもりだった。
だが、レンズ越しの世界は無情にも言葉を残す。
「はい、いいですねー! まるで付き合ってるみたいです!」
「……それは、禁句です」
凛と悠人が同時に言った。
撮影後、駅までの帰り道。
「一之瀬さん」
「はい?」
「さっきの写真……ちょっとだけ、“悪くなかった”って思った」
「それは、表情がうまく出てたって意味ですか?」
「……それもあるけど、“こういう距離感の人がそばにいたら悪くないかも”って、少しだけ」
「まさか、有栖川さんが“揺れた”?」
「揺れてません。“少しだけ”って言ったでしょ」
それ以上、二人は何も言わなかった。
だけどその日から、彼らの距離は、ほんの一歩だけ──
“好きじゃない”の先へ、近づいていた。
──第1章・了──


