隣にいる理由を、毎日選びたい

 三月初旬。
  春の足音が静かに近づいてくるなか、悠人は久しぶりに、自分の机に何も置かない一日を過ごしていた。
 「Re:frain」プロジェクトは、正式リリースから一週間が経過。
  ユーザー数は予想を上回り、社内でも一つの成功事例として紹介されはじめていた。
 だが、彼の心はどこか空白だった。
 凛と会う理由が、もう“仕事”ではなくなってしまったから。
 ふたりは、それぞれに忙しく過ごしながらも、連絡の頻度を落とさぬよう意識していた。
  だが──“会う”という行動だけは、なぜかお互いに避けていた。
 (名前のない関係は、終わるときも、名前がない)
 そんな不安が、彼の中にあった。

 その週末、思い切ってメッセージを送ったのは、悠人の方だった。
 「話がしたいです。お時間いただけますか?」
 返ってきた返事は、数分後。
 「明日、午後なら。例のカフェで」
 いつも通っていた、駅近のカフェ。
  再会の場としては、妙に“それらしい”選択だった。

 「……ごめん、遅れて」
 凛が店に入ってきたのは、約束の時間から7分遅れ。
 けれど悠人は、何も言わなかった。
  ただ、コーヒーを差し出した。
 「ありがとう。……あいかわらず、用意がいいね」
 「予定が狂うのが苦手なもので」
 ふたりは笑った。
  けれど、その笑いのあとに訪れた沈黙は、これまでのどの沈黙よりも重かった。
 「……ずっと、考えてた」
 凛が切り出す。
 「この関係に、“名前”をつけるとしたら、何がふさわしいのかって」
 「僕も、同じです」
 「恋人って言ったら、たぶん壊れる。でも、“ただの仲間”って言ったら、今度は自分を偽ることになる」
 「だから、“恋じゃないけど、ただの共感でもない”。そんな言葉が欲しかった」
 凛は、言葉を噛みしめるように続けた。
 「でもね、一つだけわかったことがある」
 「なんでしょう?」
 「私、あなたに“好き”って言われたら、もう“今のまま”には戻れない。でも、“好きって言わないまま”終わるのも、もっと嫌だって思ってる」
 悠人は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
 そして、絞り出すように言った。
 「僕も、そう思っています。だから……この関係に名前をつけるとしたら、“選び直すパートナー”が近いのかもしれない」
 「選び直す、って?」
 「恋人でも、友達でも、仕事仲間でもない。“毎日、一緒にいる理由を更新しながら選び続ける関係”です」
 凛は一瞬、言葉を失った。
 それは、彼女が誰よりも望んでいた形だった。
  縛られず、誤魔化さず、確かめながら進む関係。
 「……ずるいよ、そういう言い方。完璧すぎて」
 「完璧じゃないですよ。ただ、不安になったとき、“いまの関係を選び直せる”って思えれば、それでいいんじゃないかと」
 「それ、私も使っていい?」
 「もちろんです。“共通語”にしましょう」
 ふたりはそこで、はじめて正面から笑い合った。
 ──この関係に名前をつけるなら。
  “好き”よりも誠実で、
  “恋人”よりも柔らかく、
  “誰かと生きる”よりも個として独立していて、
  でもたしかに“必要とされている”と感じられるもの。
 その名前は、誰の辞書にも載っていない。
 けれど、ふたりだけの間では、それが何より明確な“答え”だった。
 ──第14章・了──