隣にいる理由を、毎日選びたい

 午後3時。
  社内のミーティングスペースで、悠人と凛は並んで資料のチェックをしていた。
  いつも通り、パソコンを挟んだ向かい合わせのはずが、今日はなぜか並んで同じ画面を覗き込むスタイルになっていた。
 「ここ、UIのトーンがちょっと硬いかも。“非恋愛派”って、冷たい印象持たれやすいから、もう少しだけ親しみある表現にした方がよくない?」
 「たとえば?」
 「“恋愛しない”じゃなくて、“恋愛を選ばないという自由もある”みたいな。選択肢っぽくしたい」
 「……いい表現ですね。採用しましょう」
 凛が画面にキーボードを伸ばす、その手の動きに、悠人の指先がふいに触れた。
 ほんのわずか。0.5秒もない、意図しない接触。
 けれどその瞬間、空気がわずかに揺れた。
 「あ、ごめ──」
 「……いえ。こちらこそ」
 どちらも、すぐに手を引っ込めた。
  なのに、心の中に残った“何か”が、妙に消えなかった。
 (たったこれだけで、意識するなんて)
 そう思ってしまった時点で、もう何かが変わり始めている。

 「ねえ」
 休憩中、屋上のベンチで缶コーヒーを飲んでいた凛が、ふと口を開く。
 「私たちさ、“恋愛してない”ことに対して、ちょっと意地張ってない?」
 「どういう意味ですか?」
 「……たとえばさ、距離が近づいたときに“これは恋じゃない”って確認し合うのって、もうすでに恋に似た何かを意識してるからじゃない?」
 「“好きじゃない”と明言することで、自分たちを縛っている?」
 「そう。別に、恋愛しようって言ってるわけじゃない。でも、“しない”ことに縛られすぎてる気がして」
 「……それは、ありますね。僕も最近、“揺れてはいけない”ことに疲れてきました」
 「正直者」
 凛は笑った。
  その笑顔は、軽いけれど、どこか切実だった。
 「だからさ、少しだけ緩めよう。“好きじゃない”って言い切る代わりに、“距離は自分たちで決める”ってスタンスにする」
 「……賛成です」
 それは、ゆるやかな前進だった。
 “好きか嫌いか”を判断しないかわりに、
  “この人と今、どれだけ近づけるか”を自分たちで測っていく──
 それは、ルールよりも不確かで、けれど少しだけ自由な選択だった。

 その夜。
  帰り際、エレベーターで偶然乗り合わせたふたり。
 「……今日、近かったね」
 「はい。でも、不快じゃなかったです」
 「私も。むしろ、ああいうの、悪くないって思った」
 エレベーターの中。
  0.5メートルの距離。
  ふたりの間に沈黙が降りて、それでも不思議と心地よかった。
 ──好きじゃない。でも、嫌いじゃない。
  ──まだ決められない。でも、そばにはいたい。
 そんな曖昧な感情が、今の彼らにとってのいちばんの“正解”だった。
 ──第8章・了──