隣にいる理由を、毎日選びたい

 週明けの月曜日、いつもより重い空気が、会議室に満ちていた。
 資料の確認をしていた凛がふと顔を上げると、悠人が珍しく言葉少なに、目の奥にどこか疲れを滲ませていた。
 「……なにか、ありました?」
 凛の問いに、悠人はしばらく無言だったが、やがて口を開いた。
 「昨日、元恋人に会いました」
 その一言に、空気が微かに震えた。
 「偶然?」
 「……いえ。向こうから、連絡が来たんです。“久しぶりに話したい”って。正直、断りたかった。でも、けじめのようなものだと思って会いました」
 「そう……だったんだ」
 凛は、それ以上なにも言わなかった。
   ただ、胸の奥にひとつ、“想定していなかった感情”が芽を出すのを感じた。

 カフェでの再会は、静かだった。
 彼女の名前は、朝倉 雪乃(あさくら ゆきの)。
   大学時代に一年ほど付き合い、その後、悠人の就職をきっかけに破局した相手。
 「相変わらずだね、悠人くん。言葉の選び方も、距離感も。ちゃんと線を引いてくる」
 「そういう性格だから」
 「……私はね、ずっと、“あのときあなたに嫌われたかった”って思ってた」
 「……?」
 「だって、“嫌い”なら、まだ救いがあった。私にとっていちばんつらかったのは、“感情そのものを切り離された”こと」
 「……感情は、コントロールしないと、何かを壊します」
 「だからでしょ。あなたは、あのとき私のことを“愛してなかった”んじゃなくて、“愛さない努力をした”んだと思う。だから余計に、私は壊れた」
 雪乃の言葉は、穏やかなのに鋭かった。
 「……ごめん」
 それだけを言うのが、精一杯だった。

 「……それで、どう感じたの?」
 帰り道、凛は淡々と聞いた。
   その声には、いつものような理性と論理だけがあった。
 「“自分の正しさ”に、少しだけ自信が持てなくなりました」
 悠人は、真正面から答えた。
 「彼女を傷つけたのは、“好きじゃなかった”からじゃなく、“好きにならないことを選んだから”だって、あらためて実感したんです」
 「つまり……“選ばないことも、誰かを傷つける”ってこと?」
 「はい。まさに」
 凛は黙って頷いた。
   しばらくの沈黙のあと、ぽつりと口を開く。
 「私も、似たようなこと、したことある。あえて“好きにならない”って決めて、相手から目をそらしたこと。……でも、それは“自分を守るため”だった」
 「僕も、同じです」
 「でも、もし今、“好きにならないって決める前に揺れてしまったら”、どうしますか?」
 その問いに、悠人は言葉を詰まらせた。
 「……わかりません」
 「私も、わからない。けど、“わからない”って言えるあなたなら、ちゃんと向き合えるかもしれないって思った」
 ふたりの間に、言葉では説明できない“何か”が生まれかけていた。
   まだ、名前も形もない。
   けれど、それが“かつての自分たち”とは明らかに違う感情であることだけは、確かだった。
 ──第7章・了──