夜の温室は、昼間とはまるで違う静けさに包まれていた。
月明かりが天井のガラス越しに差し込み、花々の影を柔らかく落としている。
扉がそっと開き、シドが足を踏み入れた。
そこにはすでにアリスがいて、白い花にそっと触れていた。

「シド、こんばんは。」
振り返ったアリスが微笑む。その顔を見るだけで、胸の奥が熱くなる。

「遅くなって悪い。」
「ううん。今日は仕事、忙しかったの?」

シドは少し肩を竦めて言った。
「いや…ロザリアさんの雑用をこなしていただけだよ。」

アリスはくすっと笑う。
「相変わらずシドは頼りにされてるのね。」

「アリスは?」
自分でも少し言葉を選んでいるのが分かる。

アリスは一瞬言葉を詰まらせ、視線を花に落とした。
「私は…ミロ王国の歴史を学んでいたの。礼儀作法とか習慣とか…覚えることがたくさんあるわ。」

その声は明るく装っているが、どこか緊張と不安が混じっている。
シドもすぐに続きの言葉が出てこなかった。
しばらく小さな沈黙が流れる。

やがてアリスがぽつりと聞いた。
「ねぇシド。ミロ王国へ行ったこと、ある?」

「いいや。」
シドは首を小さく振った。
「行ったことはない。」

「私もよ。」
アリスは少し寂しそうに笑う。
「というより…私、この国から出たことがないの。」

アリスが視線を上げ、逆に問い返す。
「シドは?行ったことのある国はある?」

シドは少し考えてから答えた。
「…一度だけ。“リュミエール公国”って国に行ったことがある。」

アリスの瞳が少しだけ輝く。
「リュミエール…光の国? どんなところなの?」

シドはその瞳を見つめたまま、静かに言う。
「小さい頃、母親に連れられて行ったんだ。でも何で行ったのかも何をしたのかも覚えていないんだ。」

「そう…」

アリスもシドも、次の言葉を探しながら、それでも離れ難いように静かにそこに立っていた。
毎週水曜の夜にここで会える時間が、2人にとってどれほど大切なものになっているか―互いに言葉にしなくてもわかっていた。