雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 雨が降り出したのは、夕方を過ぎた頃だった。
  東京・恵比寿。ライブハウス『éclair noir(エクレール・ノワール)』の前には、カラフルな傘が並び、人々の期待と緊張が入り混じった空気が漂っていた。
 その中で、美里は一人、緊張と興奮を胸に控室の扉を見つめていた。
  今夜は、羚音たちの初ライブ。
  ステージデビューとはいえ、すでにSNS上では“音が喋るバンド”として話題になり始めており、会場は満席、関係者席には有栖川ホールディングスの招待客も数多く含まれていた。
 「美里さん、こっち!」
 ステージ袖から手を振ったのは、ギターの灯(ともる)。
  ハーフの血が入った切れ長の目元に、銀のピアスが揺れている。
 「そろそろサウンドチェック終わりますー。あとは妖精の合図、頼みますね!」
 「妖精の……」
 そう。今夜、美里に任されたのは、“楽器の声”を翻訳してセットリストに反映させるという、常識では考えられない裏方の役割だった。
 「昨日までは“設定”って言ってたのに、もうスタッフまで信じ始めてるし……」
 美里は思わず苦笑する。
  けれど心の奥では、確かに“彼らの声”が聴こえることを自分自身も否定できなくなっていた。
 控室の扉が開き、そこに現れたのは、黒のジャケットに身を包んだ泰雅だった。
  会場の誰よりも自然体で、それでいて存在感を放つ男。
 「来てくれたんですね。」
 「もちろん。君が関わっているイベントは、どんなことがあっても見届けるつもりだよ。」
 その言葉に、美里の頬はふっと赤く染まった。
  彼の言葉はいつも真っすぐで、どこまでも優しくて。
  緊張していた心が、不思議と落ち着いていくのがわかった。
 「さっき、ステージのギターが“泣きたがってる”って言ってました。」
 「……どういうことだろう?」
 「分かりません。けど……ステージが始まる前に、“聴いてほしい”って言ってる気がします。」
 泰雅はしばらく黙っていたが、ふいに言った。
 「じゃあ、行こう。ステージの“声”を、一緒に聴こう。」
 その手を取られた瞬間、雨音の向こうに確かな“音楽の気配”が流れ始めた――



 ライブハウス『éclair noir』のステージには、ほんのりと青白いスポットライトが灯っていた。
  雨音が屋根を叩く音と、観客のざわめきの中で、美里はステージ裏の暗がりに立っていた。
 マイクチェックが終わり、会場が暗転する。
  その瞬間、空気が変わった。
 ギター、ベース、ドラム、シンセサイザー──
  すべての楽器が、美里に語りかけてきた。
 《忘れないでくれ。最初の“音”を。》
  《俺たちはずっと、想いを抱えて鳴り続けてきたんだ。》
  《今日こそ、心の声を届けたい。》
 美里は目を閉じ、すべての“声”を丁寧に聴いた。
  まるでステージ全体が生き物のように鼓動している。
  楽器たちは、それぞれの記憶と情熱を持っていて、今夜、美里に通訳されるのを待っていた。
 「セットリスト、変更するなら今が最後です!」
 ステージマネージャーが声を上げた。
 美里は迷いなく言った。
 「“溢れる涙”を最初に。次に“風になる旋律”。そして、“バラード・フォー・レイン”で締めてください。」
 「了解!」
 それは、楽器たちが望んだ流れだった。
  そして、美里が“聴いて”選んだ順番だった。
 会場の照明が一気に明るくなる。
 ステージ中央に立つのは、羚音。
 黒の革ジャケットに身を包み、フロントマイクの前に立ったその姿は、これまでのどんな映像よりも凛としていた。
 「ようこそ、“言葉を超える音”の世界へ。」
 その第一声に、観客が一斉に息をのんだ。
 そして、ギターが泣いた。
  ベースが叫んだ。
  ドラムが鼓動し、シンセが涙を包み込んだ。
 ──楽器たちが“語り始めた”。
 “溢れる涙”の旋律が空間を包むと、観客たちは何かを感じたように静まり返る。
  その音は、確かに“言葉ではない何か”を伝えていた。
 それは、誰かを愛した記憶。
  誰かを失った夜の風。
  そして、また歩き出す強さ。
 MCの代わりに、楽器たちがひとつひとつの曲の“意味”を語り始める。
  美里は、それを感じ取りながら、袖でそっと涙を拭った。
 ──こんなにも、音って強くて、優しい。
 ラストナンバー『バラード・フォー・レイン』。
  ステージ上の灯りが雨粒のように揺れ、会場はまるで水中にいるような錯覚を覚える。
  そして、ヴォーカルが最後のフレーズを歌い終えた瞬間──
 楽器たちが、一斉に叫んだ。
 《ありがとう。君のおかげで、声が届いた。》
 美里の中で、何かがほどけていく。
  “自分にしかできないこと”が、ここにあったのだと。
 ステージの幕が下りる。
  会場は総立ちの拍手。
  けれど、美里はただ静かに、ステージに手を合わせた。
 ──ありがとう。
 その想いを、音の中にそっと溶かして。
 その夜、控室のドアを開けてきたのは、泰雅だった。
  彼は何も言わず、美里を抱きしめる。
 「……君がいたから、あのステージは成功した。」
 「……私は何もしてません。ただ、“聴いただけ”です。」
 「それが誰にもできないことなんだよ。」
 ふたりの間に、また“言葉を超えた感情”が生まれる。
  雨の音は、いつの間にかやんでいた。
  それでも、ふたりの間には、確かな“バラード”が流れていた。
 それは、妖精たちが祝福する、ふたりだけのラブソング。
 【第9章『雨と妖精のバラード』 終】