雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 3月中旬の六本木。
  都会の夜は春の気配を含みながらも、なお鋭くきらめいていた。
  ネオンの川を縫うように走るタクシー、遠くで響くサイレン、歩道に浮かぶハイヒールのリズム──
  それらすべてが、ひとつの“雑踏の楽章”を奏でているように、美里には感じられた。
 その夜、彼女はひとりで夜風に吹かれていた。
 ライブが終わって数日。
  大きなステージを経て、自分の中に生まれた“静けさ”と向き合うように、六本木の路地を歩いていたのだ。
 突然──
 「……っ」
 お腹の奥で、かすかな“動き”を感じた。
 「……え?」
 足を止め、両手をそっとお腹に添える。
  また、動いた。
 ごく小さく、まるで内側から優しくノックされるような、確かな“存在の合図”。
 「あなた……なのね」
 その瞬間、耳に飛び込んできたのは、車のクラクションでも、店から漏れるBGMでもなく──
  風のように澄んだ、“小さな鐘の音”だった。



 街の喧騒が不意に遠のいた気がした。
  六本木の路地裏、わずかに開けた広場に差し込む街灯の下、風が優しく美里の髪を撫でる。
 彼女はもう一度、そっとお腹に手を添える。
 「……あなたが“音”を感じてるの?」
 微笑むその唇のすぐ傍で、街のノイズが、まるで調律されるように調和をはじめていた。
 遠くのサックス奏者の旋律。
  工事現場の打音。
  通りを渡る信号音。
 それらが、“ひとつの楽曲”のように、美里の耳に入り込んでくる。
 不思議な気配に導かれ、ふと振り向くと──そこには妖精・アイラの姿があった。
 《あなたの中の“鍵”が開いたのよ。母になるという“音”が、世界と共鳴を始めたの》
 アイラの言葉に、美里は小さく息をのんだ。
 《あなたが奏でる日々の鼓動は、あなたの子にも届いてる。これからは、音楽も言葉も、愛も、全部が“ふたりぶん”になるの》
 美里の目から、涙がひとしずくこぼれた。
  それは静かで、けれど何よりも温かい、“生”の実感だった。
 「……ありがとう。あなたを感じられて、本当に幸せ」
 そのとき、泰雅からのメッセージが届いた。
 【今どこ?……無性に君の声が聴きたくなった】
 美里は涙を拭ってスマートフォンを握り、短く返信する。
 【いま、命の音を聴いてるの。すぐ帰るね】
 その夜、ふたりの部屋には、何よりやさしい音楽が響いていた。
  鍵が開いた先には、確かな“未来の鼓動”が鳴っていた。
 【第37章『心の鍵を開く音』 終】