雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 祇園の夜は、京都の千年を纏う。
  提灯の灯りがゆらゆらと浮かび、路地を流れる風には檜と香のかすかな香りが混じる。
  夏の終わりを告げるように、祭の余韻が町中を漂っていた。
 その夜、美里は和装姿で花見小路を歩いていた。
  紫陽花色の絞りの浴衣に、帯は白金の流水文様。
  かつて母が遺してくれた反物を、今年ようやく仕立てたものだった。
 傍らに立つ泰雅も、黒紋付きに角帯という凛とした姿で、その空気に自然と溶け込んでいた。
 「まるで時が止まっているみたいですね」
 「確かに。君がそう言うと、そういう気がしてくる」
 町の角を曲がると、そこにひとりの男が佇んでいた。
  格子戸にもたれるようにして、煙草をくゆらせていたのは――寛祐だった。
 「……来たか」
 その低い声に、美里の表情が一瞬だけ曇る。
 泰雅は無言のまま、寛祐の隣に立った。
 「今夜は、全部話すつもりで来た」
 寛祐は煙を吐き、続けた。
 「俺がやったこと、全部“彩果を守るため”だった。……誤解されることも、嫌われることも、承知の上でな」
 「それでも、彼女には言わなかったのか?」
 「……言えなかった。彩果は、“正しさ”に生きてる人間だ。俺みたいなやり方は、彼女にとって苦しみしか生まない」
 「でも、それが本当の正しさだったら?」
 泰雅の問いに、寛祐は初めて目を細め、そしてふっと微笑んだ。
 「……そう思えるのは、お前が“誰かを信じる”ってことを、ちゃんと選んできたからだよ」
 その言葉に、美里は胸が締めつけられるような感覚を覚えた。
 人は、正しさのために嘘をつくことがある。
  でもその嘘が、“誰かの命や居場所”を守っているなら――それは本当に、否定されるべきことなのだろうか。



 祇園の通りに、緋色の風が吹いた。
  路地を通り抜ける風鈴の音が、まるで人々の胸の奥に沈んだ音をすくい上げるように鳴り響く。
 寛祐は、煙草の火を指先で消しながら静かに口を開いた。
 「俺はな、あの日、会長が彩果にスパイの疑いをかけたとき……それを“証明”するために動いたんじゃない。“否定”する余地を与えるために、動いたんだよ」
 「……証拠を集めるんじゃなくて、“濡れ衣だと示す”ための行動だったんですね」
 美里の声に、寛祐はうなずいた。
 「会長が疑うのは想定内だった。だけど、彼の信頼の下にいた男――俺が“告発側”の立場をとれば、会長自身が真実を再検証せざるを得なくなる。……俺はその賭けに出た」
 「それって……あなた自身の立場を失うかもしれない選択ですよね」
 「失うもんなんて、とっくにないよ。……守りたい奴がいたから、筋を通した。それだけだ」
 泰雅はゆっくりと歩み寄り、寛祐の肩に手を置いた。
 「……ありがとう。君のその“筋”がなければ、俺たちの“未来”は、たどり着けなかった」
 「恩を売るつもりはない」
 「そうだな。……でも、きっといつか、誰かが“本当の意味”でわかってくれる」
 「それが彩果なら、十分すぎる」
 その言葉に、美里はふと息を飲んだ。
 夜空を見上げると、楼閣の向こうに、淡く浮かび上がる満月。
  その光を受けた祇園の町並みが、まるで水面のように揺らいでいた。
 「“心を映す鏡”って、あると思いますか?」
 美里の問いに、寛祐がわずかに振り返った。
 「あるさ。ただし、それは“他人の目”じゃない。“自分が選んだ言葉と行動”だ。……鏡は、いつも内側にある」
 「……はい」
 美里は、泰雅の手を取った。
 その手は確かにあたたかく、すべてを受け止めてくれる光のようだった。
 「“正しさ”にもいろんな形がある。だけど私は、この人と一緒に、“信じるほう”を選びたい」
 そう語ったとき、ふたりの背後で、祇園の石畳に風が舞った。
 夜の町に咲いた灯りが、まるでふたりの影を祝福するように揺れていた。
 【第27章『心を映す鏡』 終】