雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 東京・日本武道館――
  それは長く、日本の音楽と情熱が交差する“聖地”と呼ばれてきた。
  その場所に、今夜ひとつのバンドが立つ。
  それは、羚音率いるユニット《Fête Lien》――つながりの祝祭という名を冠した、新時代の音楽集団だった。
 観客席は満員。
  客電が落ちた瞬間、静寂が空間を満たす。
  そして、その静寂を破るように、ひとつのベース音が響いた。
 《ドゥゥン……》
 重低音に導かれるように、舞台上にスポットライトが走る。
  ステージ中央に立つ羚音のシルエットが浮かび上がった。
 「ようこそ。今夜、音と言葉を、心で交わし合いにきたすべての人へ」
 その一声に、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
 舞台裏、美里は袖の暗がりに身を寄せてその様子を見守っていた。
 「大丈夫、あなたの声は、もう届いてる」
 隣に立つ泰雅が、そっと彼女の肩を支えた。
 「あなたが贈った“心の中の旋律”が、この空間を導いてる。……あとは、君がどう“応える”かだけだ」
 美里は静かに頷き、手のひらに収めたイヤモニを見つめた。
  そこにはアキが描いた、“光をまとったマイク”のイラストが刺繍されていた。
 《あなたが声を出したとき、世界が変わる――そう描いたから、きっと変わるよ》
 アキの言葉が、記憶の中でふわりとよみがえる。
 「美里、そろそろだ」
 ステージマネージャーの合図に頷き、彼女は歩き出す。
 その舞台の上で、音と言葉、心と心がひとつに重なる瞬間が、いま始まろうとしていた。



 ステージ中央、照明が美里の足元を照らした瞬間、空気が変わった。
  彼女が一歩踏み出すたび、武道館という巨大な空間が呼吸するように波打つ。
  手の中のマイクは軽く、しかしその存在は確かな重みを放っていた。
 「……私は、音楽家じゃありません。けれど、音に助けられたひとりの人間です」
 その言葉に、場内が静まる。
 「今日ここに立つのは、誰かに届けたい想いがあるからです。言葉にならない感情を、旋律に乗せて伝えられることの奇跡を……信じているからです」
 観客の心に、静かに火が灯る。
 背景のスクリーンには、アキが描いた“喋る楽器たち”のアニメーションが映し出された。
  トランペットが頬を染め、バイオリンが笑い、ベースがうつむきながら微笑む。
 その中で、ひときわ光る鍵盤の横に、美里が立った。
 イントロが流れた。
  あの日、羚音が美里の“心の音”から生まれたという新曲――『心を貫く旋律』。
 歌詞のない、ピアノとベースだけの序奏。
  やがて、美里が口を開いた。
 「ひとりで抱えた夜に、あなたの音が届いたの……」
 その声は震えていた。
  だが、決してかすれなかった。
  彼女の歌声は、どこまでもまっすぐに、観客ひとりひとりの胸を貫いた。
 まばたきを忘れたように、聴衆は静まり返る。
 涙を浮かべる者。
  手を胸に当てる者。
  隣の人と手をつなぐ者。
 そのすべてが、美里の声に“触れられた”証だった。
 歌い終えたとき、舞台袖にいた羚音が一歩、前へ出た。
 「今日のラストは、彼女と一緒に奏でる。この武道館に、ありがとうを届けたい」
 ギターを背負い、彼が弾いたのは、美里が初めて“楽器の声”を聴いたあの夜のメロディ。
 美里は再びマイクを握った。
 「世界が音でつながるなら、私は言葉でその橋を架けたい。……あなたに届きますように」
 ふたりの声と音が重なったとき、武道館全体が共鳴した。
  その場にいたすべての人が、何かを受け取ったように、涙と笑顔で空を仰いだ。
 音は言葉を超え、心に届く。
  それを証明した夜。
  交差した旋律が、人と人を、ふたりを、そして世界をひとつにした夜だった。
 【第26章『交差する旋律』 終】