雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 東京・医療センター特別病棟。
  午前四時、静まり返ったICUの待合室には、雨音だけが淡く響いていた。
  窓の外では秋の気配を含んだ雨が、規則的にガラスを打っている。
  街はまだ眠っていたが、この場所だけは、どこよりも醒めた緊張が張り詰めていた。
 「……会長の意識は?」
 医師の問いに、補佐の看護師が小さく首を振った。
 「血圧は安定していますが、意識の戻りはまだ確認できていません」
 無機質な会話が、淡々と続いていく。
  その中心にいるのは、白衣に着替えた泰雅だった。
 誰もが知る御曹司CEOという顔ではない。
  そこにいたのは、かつて世界中の救急現場で臨床を重ねた、もうひとつの顔――“天才外科医”としての泰雅だった。
 「手術は必ず成功させる。父を救い、誤解を正す。それが……俺の責任だ」
 彼の声は静かでありながら、深い覚悟を含んでいた。
 そのとき、待合室の扉が開いた。
 「泰雅さん……!」
 美里が駆け込んでくる。
  雨に濡れた肩先を気にする間もなく、彼の前に立った。
 「お願いです、私もここにいさせてください。あなたと、会長のそばに……」
 「美里……」
 「私、傍観者ではいられません。あなたの“家族”になると決めた以上、これは他人事じゃないから」
 彼は数秒、視線を彼女に預け、そして無言で頷いた。
 「わかった。なら――約束してほしい。俺が執刀に入っている間、どんなことがあっても、俺を信じていてくれ」
 「……はい」
 「たとえ、雨音がすべてをかき消しても。たとえ、不安の嵐が吹き荒れても」
 「信じて待ちます。あなたの想いは、きっと届くと」
 ふたりは、確かに“同じ覚悟”を交わした。
  それは、雨音に包まれた小さな誓いだった。



 ICUの手術灯が灯る。
  無影灯の下、医療チームは粛々と準備を整えていた。
 「開胸、開始します」
 泰雅の声が静かに響いた。
 彼の動きには一分の隙もなかった。
  手術衣の下から現れる両手は、ピンセットやメスを受け取るたびにまるで舞うように流れ、目の前の命と真っ向から向き合っていた。
 スタッフは皆、彼が御曹司であるという事実を忘れ、ただ一人の優れた執刀医として動いていた。
 手術は数時間に及んだ。
 そして、心拍計のリズムが安定し始めた瞬間、控室にいた美里が胸を押さえた。
 「……伝わった……」
 まるで“音”のように、彼の決意が波となって届いた気がした。
 術後の報告が行われた。
 「心拍、安定しました。合併症のリスクも低く、経過も良好です」
 「……ありがとうございます」
 美里の目に涙が溢れた。
 数分後、手術室から出てきた泰雅の顔は、汗に濡れ、疲弊の色が濃かった。
  それでも、その目は“何かを守り抜いた者”だけが持つ光を宿していた。
 「……ただいま」
 「おかえりなさい。……ずっと信じていました」
 彼女の声に、泰雅はわずかに微笑み、そして彼女の額にそっと唇を落とした。
 「ありがとう。君がいたから、ここまでやれた」
 その瞬間――
 ICUの窓の向こう、雨が上がった。
 淡い朝日が雲間から差し込み、ガラス越しに妖精の光が踊った。
 “雨音に隠した約束”は、確かに届いたのだ。
 そして、それはふたりの絆を、より深く、より確かに結び直すこととなった。
 【第23章『雨音に隠した約束』 終】