雨と妖精に導かれて ──御曹司CEOからの溺愛ラビリンス

 静まり返った山間の空気を裂くように、ドラムスティックの乾いた音がスタジオに響いた。
  時刻は深夜一時。
  都心から離れた山中の合宿所にある古びた音楽スタジオで、羚音たちのバンドは新曲制作の追い込みに入っていた。
 「……もう一回だ」
 アンプの前でベースを抱えたまま、羚音が低く言った。
  眉間には深い皺が寄り、指先には白いチョークのようなタコが浮いていた。
  リードギターもキーボードも疲労の色を隠せないが、それでも誰一人音を止めようとしなかった。
 その片隅、美里はスタジオのガラス越しに控室からその光景を見守っていた。
 「ここまで追い込むんだ……」
 初めて見る“真剣な音楽家たち”の姿に、ただ圧倒されるばかりだった。
 「そりゃあ追い込むさ」
 背後から泰雅の声がした。
 「羚音にとって、今回の曲はただの新作じゃない。“父親を救う手段”でもあるからな」
 「えっ……?」
 美里が振り返ると、泰雅の目には淡い影が落ちていた。
 「羚音の父親は、先月倒れたんだ。心臓の持病があってな。高額な手術が必要だ。でも、保険も下りないし……」
 「じゃあ、メジャーデビューで……?」
 「そう。契約金を前借りすれば、手術費にできる。だから、彼は今、命がけで音を鳴らしてる」
 美里はそっと胸元に触れた。
  あの夜、喋るベースが“秘密を教えて”と訴えていた気がしていた。
 《心の中の秘密、俺にもあるんだ》
 それは、音が語りかけていた真実だったのかもしれない。
 スタジオの中では、再び演奏が止まり、静けさが訪れた。
  羚音が、汗に濡れた髪をかき上げながら、一人ベースの弦を軽く叩いていた。
 「……どうしてだよ、響かない」
 その呟きに、ベースがぽつりと返した。
 《本音を押し殺すな。お前の旋律は、心を貫くためにあるんだろ》
 その“声”を、美里だけがはっきりと聴いていた。
 扉をそっと開けて、スタジオの中に入る。
 「羚音さん、今の旋律……心じゃなくて、理屈で弾いていませんか?」
 「……は?」
 「音って、気持ちが乗ると光が変わります。今の音は……怒ってるように聞こえました」
 羚音は、しばらく無言だった。
 「……そうだな。正直、焦ってる。全部、金のために音を作ってる気がして、嫌になるんだ」
 「でも、それでも音は……あなたを責めてません」
 「……美里ちゃんには、音が聞こえるんだっけ」
 「はい。だから、今の音が泣いてるの、わかります。あなた自身も、泣きたいほど追い詰められてる」
 羚音はベースを抱え直した。
 「……だったら、その“涙”をそのまま音に乗せる。構成もコードも関係ない。“俺の想い”で、ぶち抜く」
 再び、指が弦をはじいた。
 その瞬間、今までのどの音よりも深く、強く、心に突き刺さる旋律がスタジオに響いた。



 その音は、誰のものでもない“羚音そのもの”だった。
  指先が震えても、視界が滲んでも、ベースの旋律はまっすぐに空気を裂いて響き続けた。
 泰雅はその場に立ち尽くし、美里の隣で目を細めた。
 「……届いたな」
 「ええ、まっすぐに」
 演奏が終わると、スタジオには沈黙が訪れた。
  けれど、その静寂には圧倒的な余韻が宿っていた。
 「やっと、出せた……」
 膝に手をついた羚音が、小さく息をついた瞬間。
  後方のスピーカーから、“録音完了”のランプが灯った。
 「今の音源、使えるか?」
 スタッフが驚いた顔で頷く。
 「……むしろ完璧です。あれを超える演奏は、もう誰にもできない」
 スタジオの空気が安堵に満ちたその時、泰雅が静かに歩み出て、羚音に一枚の名刺を差し出した。
 「これ、信頼してる外科医チームだ。手術の資金については、前金として俺が用意する。……その代わり、遠慮なく“売れ”」
 羚音はその言葉に唇を引き結び、震える指で名刺を受け取った。
 「……ありがとな、泰雅。正直……悔しい。でも、情けないなんて思わない。お前に、ここまで言わせた音を、俺が出せたことが……誇りだ」
 「それでいい。俺は、お前の音に助けられてきた。その借りを、今返すだけだ」
 その会話に、美里は胸が熱くなった。
  男たちのぶつかり合いの中に、確かに“信頼”と“誇り”があった。
 夜が明けかけていた。
  窓の外、うっすらと東の空が白み始め、山並みに朝の気配がにじみ出す。
 スタジオの照明が落ち、代わりに差し込んだのは自然の光。
  それを背に、美里が泰雅に近づいた。
 「……あなたは、誰かの心を動かす力がある人ですね」
 「そう見えた?」
 「はい。私は、その“心を動かす音”を、ずっとそばで聞いていたい」
 泰雅は微笑み、美里の頬に手を添えた。
 「君がいたから、この夜があった。……ありがとう」
 「……どういたしまして」
 ふたりの間に、言葉にならない“旋律”が流れた。
  それは音でも、視線でもない、ただ“心を貫くもの”。
 そして、その旋律はこれからも、ふたりを導く“光”になると、美里は信じていた。
 【第19章『心を貫く旋律』 終】