夜の汐留。
高層ビル群が漆黒の空に向かって鋭く突き刺さるように聳え立ち、ライトアップされた街並みがガラスの壁に映り込み、無数の星のように瞬いていた。
そのなかでも最上階に位置するスイートルームの窓辺では、美里が一歩、静かに足を踏み出した。
足元には柔らかなカーペット、周囲を囲むのは天井まで届くシャンデリアと、クラシックなピアノ。
そして、その鍵盤の前に立つ男――泰雅がいた。
「驚いた?」
「……はい。あまりに……現実離れしていて。」
「現実だよ。すべて、君のための。」
微笑む彼は、昼間のCEOの顔ではなかった。
どこか少年のようで、でも一音ごとに深い想いを抱えているようにも見えた。
「この部屋、前から気になってたんだ。景色も音の響きも、“君に似てる”気がして。」
「私に、ですか?」
「うん。見た目は静かで、でも光の入り方や温度で、まったく表情が変わる。」
その言葉に、美里はわずかに頬を染める。
泰雅が鍵盤に手を置いた。
そして、最初の一音が、静かに部屋を包んだ。
それはまるで、誰かが記憶の奥底にそっと触れるような、柔らかな旋律だった。
低音は穏やかに、しかし芯のある響きで、美里の胸の奥へと染み込んでいく。
「この曲、タイトルはまだ決めてない。でも……たぶん“君の涙”を思い出して作った。」
「……私の、涙?」
「初めて会った羽田空港。君の指先に滴が落ちたあの瞬間が、ずっと離れなくて。」
美里の目がふわりと潤む。
「あのとき、私は……何かを諦めるような気持ちだった。でも、あなたが差し出してくれたハンカチで、少しだけ救われた気がしたんです。」
「だから、この旋律を君に贈りたい。あの涙が、“始まり”だったって思えるように。」
演奏が終わると、泰雅は美里の前に立ち、そっと手を差し出した。
「……本当は、今夜、プロポーズしようと思っていた。」
「……え?」
「でも、やめた。」
「……なぜ?」
「まだ、ちゃんと君のすべてを知れてないから。もっと君と向き合って、ちゃんと“未来”を描いてからにしたい。」
その目は、まっすぐで嘘がなかった。
そして、それが何よりも胸を打った。
「だから、これは……“前奏曲”。君との未来の、序章。」
泰雅はポケットから、小さなメモを取り出した。
そこには手書きのタイトルが記されていた。
『雨に溶け込む君の涙』
美里は、何も言えずにその紙を受け取った。
けれど、その胸の奥では、確かな旋律が鳴り始めていた。
静かな音の余韻が部屋の空気を満たしていた。
まるでこの空間そのものが音楽の一部となったかのように、美里はしばらく何も言葉を返せなかった。
「……私、何度も想像してました。」
ようやく、美里は震える声を絞り出した。
「もし、あなたに“選ばれる”日が来たら……どんなふうに応えたらいいんだろうって。でも……今日みたいに、“選ばない”優しさをもらったのは、初めてです。」
泰雅はふっと微笑み、ピアノの椅子から立ち上がって、美里のそばに来た。
その瞳には、言葉では表現できない静かな愛情が宿っていた。
「君が無理に背伸びしなくていいように、俺はこのペースで進みたいんだ。俺たちだけのリズムで。」
「……そんな人、他にいません。」
「俺だけで十分だ。」
その冗談めいた言葉に、思わず笑ってしまう。
泰雅はそっと、部屋の奥に置かれたグランドピアノの蓋を閉じ、リモコンで部屋の照明を落とした。
薄暗い空間の中で、夜景の光が二人を包み込む。
「ここに泊まろうか。」
「えっ……?」
「安心して。何もしないよ。……ただ、君とこの景色を、もう少しだけ見ていたい。」
ソファに並んで座ったふたりの間には、言葉よりも濃密な沈黙が流れた。
美里は、ペンダントに手を添えた。
その“鍵”は、今日もわずかにぬくもりを宿していた。
「ねえ、泰雅さん。」
「ん?」
「私……あなたに出会ってから、世界の見え方が変わった気がします。」
「たとえば?」
「雨が、悲しいだけじゃなくなった。沈黙が、不安じゃなくなった。……自分の声が、少しずつ好きになってきた。」
泰雅は、美里の手を包むように握りしめた。
「君の声が好きだよ。言葉じゃなくても、目や指や、沈黙さえも。全部、君だ。」
美里は、肩を寄せた。
「……この曲、レコーディングしてくれますか?」
「もちろん。」
「私、あなたの音楽を、世界に届ける翻訳家になります。」
「……なら、この曲を最初に頼む。“君の涙”を、世界のどこにいても伝わるように。」
「きっと、伝えます。」
言葉を交わさずとも、互いの想いは同じだった。
そして深夜。
眠りについた美里の隣で、泰雅は静かに再びピアノの前に座った。
“雨に溶け込む君の涙”。
その旋律が、夜の街をそっと撫でていく。
それは恋の始まりではなく、“確かな愛”の証として――
【第14章『想像もしていなかったプレゼント』 終】
高層ビル群が漆黒の空に向かって鋭く突き刺さるように聳え立ち、ライトアップされた街並みがガラスの壁に映り込み、無数の星のように瞬いていた。
そのなかでも最上階に位置するスイートルームの窓辺では、美里が一歩、静かに足を踏み出した。
足元には柔らかなカーペット、周囲を囲むのは天井まで届くシャンデリアと、クラシックなピアノ。
そして、その鍵盤の前に立つ男――泰雅がいた。
「驚いた?」
「……はい。あまりに……現実離れしていて。」
「現実だよ。すべて、君のための。」
微笑む彼は、昼間のCEOの顔ではなかった。
どこか少年のようで、でも一音ごとに深い想いを抱えているようにも見えた。
「この部屋、前から気になってたんだ。景色も音の響きも、“君に似てる”気がして。」
「私に、ですか?」
「うん。見た目は静かで、でも光の入り方や温度で、まったく表情が変わる。」
その言葉に、美里はわずかに頬を染める。
泰雅が鍵盤に手を置いた。
そして、最初の一音が、静かに部屋を包んだ。
それはまるで、誰かが記憶の奥底にそっと触れるような、柔らかな旋律だった。
低音は穏やかに、しかし芯のある響きで、美里の胸の奥へと染み込んでいく。
「この曲、タイトルはまだ決めてない。でも……たぶん“君の涙”を思い出して作った。」
「……私の、涙?」
「初めて会った羽田空港。君の指先に滴が落ちたあの瞬間が、ずっと離れなくて。」
美里の目がふわりと潤む。
「あのとき、私は……何かを諦めるような気持ちだった。でも、あなたが差し出してくれたハンカチで、少しだけ救われた気がしたんです。」
「だから、この旋律を君に贈りたい。あの涙が、“始まり”だったって思えるように。」
演奏が終わると、泰雅は美里の前に立ち、そっと手を差し出した。
「……本当は、今夜、プロポーズしようと思っていた。」
「……え?」
「でも、やめた。」
「……なぜ?」
「まだ、ちゃんと君のすべてを知れてないから。もっと君と向き合って、ちゃんと“未来”を描いてからにしたい。」
その目は、まっすぐで嘘がなかった。
そして、それが何よりも胸を打った。
「だから、これは……“前奏曲”。君との未来の、序章。」
泰雅はポケットから、小さなメモを取り出した。
そこには手書きのタイトルが記されていた。
『雨に溶け込む君の涙』
美里は、何も言えずにその紙を受け取った。
けれど、その胸の奥では、確かな旋律が鳴り始めていた。
静かな音の余韻が部屋の空気を満たしていた。
まるでこの空間そのものが音楽の一部となったかのように、美里はしばらく何も言葉を返せなかった。
「……私、何度も想像してました。」
ようやく、美里は震える声を絞り出した。
「もし、あなたに“選ばれる”日が来たら……どんなふうに応えたらいいんだろうって。でも……今日みたいに、“選ばない”優しさをもらったのは、初めてです。」
泰雅はふっと微笑み、ピアノの椅子から立ち上がって、美里のそばに来た。
その瞳には、言葉では表現できない静かな愛情が宿っていた。
「君が無理に背伸びしなくていいように、俺はこのペースで進みたいんだ。俺たちだけのリズムで。」
「……そんな人、他にいません。」
「俺だけで十分だ。」
その冗談めいた言葉に、思わず笑ってしまう。
泰雅はそっと、部屋の奥に置かれたグランドピアノの蓋を閉じ、リモコンで部屋の照明を落とした。
薄暗い空間の中で、夜景の光が二人を包み込む。
「ここに泊まろうか。」
「えっ……?」
「安心して。何もしないよ。……ただ、君とこの景色を、もう少しだけ見ていたい。」
ソファに並んで座ったふたりの間には、言葉よりも濃密な沈黙が流れた。
美里は、ペンダントに手を添えた。
その“鍵”は、今日もわずかにぬくもりを宿していた。
「ねえ、泰雅さん。」
「ん?」
「私……あなたに出会ってから、世界の見え方が変わった気がします。」
「たとえば?」
「雨が、悲しいだけじゃなくなった。沈黙が、不安じゃなくなった。……自分の声が、少しずつ好きになってきた。」
泰雅は、美里の手を包むように握りしめた。
「君の声が好きだよ。言葉じゃなくても、目や指や、沈黙さえも。全部、君だ。」
美里は、肩を寄せた。
「……この曲、レコーディングしてくれますか?」
「もちろん。」
「私、あなたの音楽を、世界に届ける翻訳家になります。」
「……なら、この曲を最初に頼む。“君の涙”を、世界のどこにいても伝わるように。」
「きっと、伝えます。」
言葉を交わさずとも、互いの想いは同じだった。
そして深夜。
眠りについた美里の隣で、泰雅は静かに再びピアノの前に座った。
“雨に溶け込む君の涙”。
その旋律が、夜の街をそっと撫でていく。
それは恋の始まりではなく、“確かな愛”の証として――
【第14章『想像もしていなかったプレゼント』 終】


