「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

 自宅に帰って来てからは何も手につかなかった。
 ベッドの上にゴロンと横になって、ずっと天井を見つめている。
 
 先生に片思いの人がいたなんて……。
 
 先生も私に好意があるかもしれないと、ちょっとでも期待した自分が嫌になる。
 加瀬さんに遊ばれていたとわかった時以上にショックだ。
 このモヤモヤした気持ちをなんとかしたい。そう思った時、スマホが鳴る。相手は高坂さんだ。ゲッと思うが、電話に出た。

「なんですか?」

 普段より低い声で出た。

『うわっ、お前めちゃくちゃ不機嫌だろ。いくら俺が大嫌いだからって、もう少し取り繕えよ』
「大嫌いな高坂さんに取り繕う必要ないですから。用がないなら切りますよ」

 切ろうとしたら、高坂さんが慌てて話す。

『切るなよ。この間の返事を聞きたくて電話したんだ』
「それならお断りしましたけど」
『そう無下に断るなよ。そうだ。この間、加瀬に会ったから、叱っといたぞ。お前、仕事で加瀬に会ったんだろう? あいつ、お前に謝罪の言葉もなく、奥さんの前でお前のことを完全な他人扱いしたんだろ?』

 加瀬さんから聞いたんだろうか。

「その通りですが、もう加瀬さんのことは忘れたので大丈夫です」
『それなら良かった。加瀬の件では俺も申し訳ないと思っている。まさか藍沢と加瀬が付き合っているとは思わなかったんだ。気づいた時には加瀬は今の奥さんとの結婚を決めた時で、俺的には最速で藍沢に伝えたつもりだったんだが、酷い伝え方をしてしまったと反省している。藍沢すまない』

 高坂さんがそんな風に気にしているのは知らなかった。

『藍沢に加瀬を紹介したのは俺だし、これでも責任を感じているんだ』
「だからお見合いの代理を引き受けたんですか?」
『まあな。藍沢にこっぴどく振られたが。大嫌いって言われたのはさすがに初めてだった』
「私も誰かに大嫌いって遠慮なく言ったのは初めてです」

 高坂さんが私の言葉を聞いて笑う。
 私も笑った。まさか高坂さんと笑う日が来るとは思わなかった。

『藍沢、追い詰めてごめんな』

 しんみりとした声で高坂さんが言った。
 その声にぐっと胸を突かれ、カレンダーの数字が滲む。