「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

 午後七時丁度に先生が教室に入ってくる。

 ワイシャツに今日は紺のスラックスを合わせていて、眼鏡をかけている。
 目が合うと、先生がニコッと私に向けて微笑んだ気がした。

 先週は後ろの席で残念だと思ったけど、今日は前から三列目の席が何だか気まずい。教室で会う先生との距離感がわからない。

 今夜の講義はキャラクターの作り方についてだった。
 前に立つ先生がみんなに向かって話す。

「架空の人物を書く訳ですが、その人物の元になるのは、実際の人間だったりします。例えば僕の知人の脚本家は息詰まると、カフェに一人で行き、周囲の話をこっそり聞いたり、気になる人がいたら、尾行するそうです。それで、実は尾行していたのが、刑事で、返り討ちにあい、こってりと絞られたなんて話も聞きましたが、そのことも含めてドラマのネタになったそうです。経験することは何でもネタになります。ですから、失敗したことも無駄にはならないんですね。むしろそこから面白いドラマが作れます」

 失敗したことも無駄にならないという話が、何だか嬉しかった。

「さて、次回の課題ですが」

 そう言って先生が教室全体に視線を向ける。

「『恋愛ドラマ』にしましょうか。皆さんが書いてみたい恋愛を書いて来て下さい」

 気のせいだと思うけど、私の方を見ながら先生が言った気がした。たったそれだけのことに、何だか落ち着かなくなる。

「恋愛ドラマか。なんか面白そう」

 講義が終わると、リュックに筆記用具を仕舞いなから大塚さんが言った。
 もう教室に先生はいない。

「なんかわくわくするね」

 大塚さんが微笑む。

「そうですね」と相槌を打つが、いい恋愛をしていない私は少々気が重い。
「藍沢美桜さん?」

 座ったまま大塚さんと話していたら、突然声をかけられた。