「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「藍沢さん?」

 黙ったままの私を先生が見つめる。
 風がふわりと吹き、夜の匂いがした。

 先生の顔が近づく。私も何かに引っ張られるように先生の方へ顔を寄せる。

「春希!」

 背後から怒ったような声がして、我に返る。
 先生と同時に後ろを向くと、歩道の真ん中に赤井響子が立っていた。

「なんで電話に出ないの?」

 そう言って、彼女は先生に近づいた。

「……響子」

 彼女のことを下の名前で呼ぶ先生に驚いた。
 一体、赤井さんと先生はどんな関係なのだろう? ただのシナリオ教室の先生と生徒の関係には思えない。

「なんでいるんだ?」

 先生が赤井さんに視線を向けたまま聞いた。

「春希を駅でずっと待ってたの。メッセージ見てないの?」
「ごめん。スマホは家に置いて来た」
「最悪。私をどれだけ待たせたと思っているのよ」

 不機嫌そうな顔で赤井さんは先生を睨んだ。
 この場にいてはいけない空気を感じる。

「あの、先生、私はこれで」

 先生が私を見て、すまなそうな顔をする。

「送らなくて大丈夫?」
「大丈夫です。近いですから。じゃあ、あの、おやすみなさい」
「おやすみ」

 先生に会釈をして、私は歩き出した。

「あの女誰よ」

 去り際に赤井さんの苛立った声が聞こえた。まるで先生の彼女みたいな言い草だと思った。そして私は浮気女のよう。
歩きながら悶々としてくる。さっきまであんなに楽しかったのに、なんで私はこんなに苛立っているのだろう。

 赤井さんに浮気女のように思われたのが嫌だったのか。彼女がいながら私と二人だけで飲みに行った先生が嫌だったのか。どっちだろうと考えながら今度は悲しくなった。素敵な夜だったのに、何だか台無し。