「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

 目を丸くして先生を見ると先生が笑った。

「冗談」

 冗談だったのか。物凄くドキッとした。胸も顔も熱い。真に受けてバカみたい。

「そういう冗談はやめて下さい。心臓に悪いですから」
「ごめん。藍沢さんといるのが楽しくて。俺、ちょっとはしゃいでいるのかも」
「楽しいんですか?」
「うん。こうして誰かと居酒屋に来るのが久しぶりだからかな。まだ引っ越して来たばかりで、近所に遊んでくれる人もいないしな」
「私が遊んであげましょうか?」

 口にしてすぐに後悔した。自分の発言が高飛車に思えて、恥ずかしい。

「ごめんなさい。調子に乗りました。今のは聞かなかったことに」
「そうなの? 遊んでくれないの?」

 先生が寂しそうな顔をする。

「だって、私は先生の生徒ですよ」
「そう聞くと、生徒と居酒屋にいる俺が悪いやつみたい」
「ですね」

 先生と顔を見合わせて笑う。

「俺のことは先生じゃなく、小早川か、春希って呼んでほしい。なんか先生って呼ばれる度に藍沢さんから線を引かれているようで」
「だって私は今、先生に教わっている身ですから、ちゃんと線を引かなきゃ」
「もしかして俺を警戒している? 冗談で付き合おうなんて言ったから」
「さあ、どうでしょうかね。あ、次は何飲みます?」

 先生も私もビールジョッキが空になった。

「藍沢さんは、はぐらかすのが上手いな。次は日本酒に行こうかな」

 先生がメニューに視線を落とす。
 鼻筋の通ったその横顔を見て、やっぱり綺麗だと思った。