「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

 駅近くにある海鮮居酒屋『一瀬』は、ときどき家族で足を運ぶ店だった。
 お気に入りの水色のシャツワンピースに着替え、軽くメイクをした私は午後七時に居酒屋に入った。

 カウンター席に座るワイシャツ姿の先生を見つける。急いで来たつもりだったけど、先生に先を越された。

「すみません。お待たせしました」

 先生の隣に腰を下ろしながら言った。

「いや。俺も今来たところ。丁度いいタイミングだったよ」

 ニコッと先生が口の端を上げる。その顔にやっぱり眼鏡はなく、こっちの方がいいなと思う。

「視線が突き刺さるんだけど、俺の顔に何かついてる?」
「あ、いや。今日は眼鏡かけてないんだなと思って」
「ああ」と言って、先生が笑みを浮かべた。
「実は伊達メガネで、講師らしく見せるための小道具」
「えっ、そうだったんですか」

 意外な答えに眉を上げると、クスクスと先生が笑う。

「藍沢さんはリアクションがいいね。きっと素直さが出てるんだろうな」
「私、素直なんですか?」
「そう見えるけど。何か頼もうか」

 そう言って先生がメニューを見る。