「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「あの、私」

 先生に聞こうとした時、ポケットの中のスマホが振動する。
 母からだと思ったら、加瀬さんからだった。

【今日はびっくりしたよ。妻には何も言ってないよね?】

 メッセージを見て忘れていた苛立ちが込み上がる。
 やっぱり気づいていた。知らないふりをしていたんだ。加瀬さんはそういうことが平気で出来る人だったんだ。

「藍沢さん?」

 私を見る先生の顔が涙で歪んだ。

「ごめんなさい。なんでもないんです」

 慌てて悔し涙を指で拭った。

 一言、私に謝罪の言葉もない加瀬さんが憎らしかった。

 別れは私の方から切り出した。高坂さんから加瀬さんが結婚すると聞き、これ以上付き合うのは無理だと思った。そのことを電話で話したら、加瀬さんは謝罪の言葉もなく、『知っているなら話は早い。別れよう』と言った。あっさりとした別れだった。加瀬さんにとって私ってなんだったんだろうと今になって思う。