「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「ダメ?」

 躊躇っていると、先生に聞かれる。
 甘えるような表情を向けられて心がくすぐられる。

「いえ」

 私は遠慮しながら椅子に腰を下ろした。

「すみません。こんな格好で。仕事帰りだったもので」

 クスッと先生が笑う。

「いえいえ。そんなことないですよ。僕もこんな格好ですみません。仕事帰りなんで」

 先生が自分の服を見ながら言った。
 私の言い方をマネした先生が可笑しくて笑いが零れる。

 さっきまで沈んだ気持ちでいたのに、先生と話しただけで、気持ちが上を向く。

「藍沢さんは笑顔が似合うね」

 そんな風に言ってくれた男性は初めてだったので、ドキッとした。

「そ、そうですか」
「うん。昨日も図書館で藍沢さんの笑顔いいなって思ったんだ」
「褒めても何も出ませんよ」
「こうして話し相手になってくれるだけで充分」

 先生と顔を見合わせて笑う。
 心の中が何だか温かくなる。半年前のあの夜も同じことを思った。先生は私のことを覚えているだろうか?