「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「……ありがとうございます」

 何だか恥ずかしくて彼の顔が急に見られなくなった。

 どこにも行き場所がなくて、海浜公園の浜辺に降りる途中にある階段に座って、しくしくと泣いていたら彼が現れた。隣に座った彼は最初に「大丈夫?」と声を掛けてくれて、私が泣き止むと「どうしたの?」と私の話を聞いてくれた。彼に今の辛さを話したら、混乱していた気持ちが少しだけ落ち着いた。

「逃げてもいいんですか?」
「うん。逃げちゃえ。地球の裏側まで逃げちゃえ」

 地球の裏側という言葉が可笑しくて思わずぷっと吹き出した。
 ずいぶんと久しぶりに笑った気がする。

「地球の裏側って、そんな遠くまで逃げていいんですか?」
「いいんだよ。だってさ、自分が一番大事だから。自分を守るためなら逃げてもいいんだよ」

 ぐっと胸に染みて来て、一瞬で視界が歪む。

「あ、ごめん」

 下を向いて泣き出した私に彼が慌てたように二つ目のポケットティッシュを差し出してくれる。
 一つ目は金融会社の広告だったけど、二つ目は保険会社の広告が入ったティッシュだった。

「沢山持ってるから、遠慮はいらない」

 得意げな彼の言い方が可笑しくて泣きながら私はまた少しだけ笑った。まだ私には笑える元気がある。そう思ったら、立ち上がることができた。どこにも行けないと思っていたけど、自分を守るためにまだ私は少しだけ頑張れる。

「私、逃げます」
「うん」

 立ち上がった彼が頷いた。
 背の高い人だった。身長一六〇センチの私の頭は彼の肩の位置の辺りにある。

 タクシーが掴まる公園の外まで彼が送ってくれた。

「気をつけて帰るんだよ」

 私をタクシーに乗せると彼はそう言った。