「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「あ、あの……はい」

 頷くと、眼鏡を外した先生が嬉しそうな顔をする。

「俺も藍沢さんと同じ気持ちだから」

 えっ……。

「藍沢さんが好きだ」

 信じられない言葉が耳に入る。
 驚いて瞬きをしていると、先生の顔が近づく。これはキスの流れ?

「もう閉店の時間です」

 頭上からカフェ店員の声がして、キスしそうな距離にいた私たちは慌てて離れた。
 先生も私も気まずい笑みを浮かべ、店を出た。

「家来る?」

 隣を歩く先生に聞かれた。

「お邪魔していいんですか?」
「もちろん。というか、来て欲しい。話したいことあるし。あ、でも、襲わないから」

 最後に先生が付け足した言葉がおかしい。

「先生のことは信用していますから」
「ありがとう。なるべく藍沢さんの希望に添えるように頑張る」

 一体何をと聞きそうになった。

「手、つないでいい?」

 その言葉に今までと違う距離感にいるのだと実感する。

「はい」

 先生が大切なものに触れるように私の手を取る。

「やっと堂々と藍沢さんと手をつなげるようになった」
「私と手をつなぎたかったんですか?」
「まあね」

 先生が照れ笑いを浮かべながら言った。

「私も」

 お酒の勢いで思い切って口にした。

「俺たち同じ気持ちだったのか」
「みたいですね」

 顔を見合わせ微笑んだ。

 こんなに幸福な夜は初めてだった。見慣れた街の景色が普段よりもキラキラと輝いて見える。隣に先生がいる。それだけで胸が弾む。

 あの絶望的な夜を思い出すと、こんな幸福が私の人生にあるとは思わなかった。今すごく幸せだ。