「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

◆◆◆

「先生が私に勇気をくれたんです」

 そう口にした藍沢さんは自信に満ちていて、綺麗だった。
 彼女も何かを吹っ切れたらしい。俺も頑張ろうと思った。

「じゃあ、先生、無理しないで下さいよ」
「うん。ありがとう」

 彼女が帰った後、俺はシナリオに取り掛かった。胸を張って彼女に告白できる自分になりたかった。
 寝込んでいた二日間を取り戻すようにパソコンに向かった。藍沢さんに好きな人がいても、シナリオを書き上げたら告白しようと思った。だから、一日も早く完成させたくて、集中した。それで藍沢さんから預かったシナリオのことは忘れていた。
思い出したのは木曜日で、シナリオ講座の準備をしようと思った時だった。
今日は教室で彼女と顔を合わせるから、その前に読んでおこうと思い、藍沢さんのシナリオを手に取った。

 タイトルは【彼】だった。
 夜の海浜公園で、ヒロインが泣いているシーンから始まり、彼が現れる。

【逃げていいんだよ】

 彼のセリフを読んで、どこかで聞いた気がした。そして二人のやり取りを読みながら、遠い記憶の中にあった夜の光景が蘇る。

『逃げてもいいんですか?』
『うん。逃げちゃえ。地球の裏側まで逃げちゃえ』

 記憶を失ったあの夜、彼女とそんなやり取りをした。笑った彼女を見て、笑顔が素敵な人だと思った。
 藍沢さんのシナリオを見ると同じセリフがあった。

【逃げてもいいんですか?】
【うん。逃げちゃえ。地球の裏側まで逃げちゃえ】

 これはどういうことだ?