「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

 ◆◆◆

 今日も俺は彼女と会った海浜公園に来てしまった。

『逃げていいんだよ』と、彼女にかけた言葉は覚えているが、どんな話をしたのか七ヶ月経っても思い出せない。とっくに頭の傷は治っているのに。

 名前も顔も声も思い出せないのに、彼女に会いたい。もう一度話したい。そうすれば俺はまた脚本家に戻れる気がする。

「もう!」

 声がした方を見ると、松林の奥のベンチに見覚えのある背中があった。

「え、藍沢さん?」
「えっ……先生!」

 こっちを振り向いた藍沢さんが驚いたように瞬きをする。
 俺も驚いた。まさかまた藍沢さんとこの場所で会えるとは思わなかった。

 藍沢さんは俺たちが共鳴しているから会えるのだと言った。そして未練があるか聞かれた。藍沢さんはデザインの仕事に未練があると言った。好きなものがわからなくなったという言葉を聞いて、俺と同じだと思った。

 大学在学中の二十歳で脚本家デビューした俺はありがたいことに仕事が途切れることがなかった。次から次へと求められるままに書いていたが、あの事件があって俺は自分が正義だと思っていたものが目の前で壊れるのを見た。

『僕にとって大事な物語なんです。僕の好きを詰め込んで書いたヒロインなんです』

 原作者の言葉だった。
 俺はプロデューサーだった響子に売れ筋を書いて欲しいと言われ、ヒロインの設定を思い切り変えた。視聴者に受ける要素を俺なりに詰め込んだヒロインとなったが、原作小説のヒロインとは別人になった。俺にとっての正義は売れることだ。売れなければ次の仕事が入って来ない。そう思って書いて来た。しかし、俺の所に来た原作者の『好きを詰め込んで書いたヒロイン』という言葉が胸を貫いた。

 俺もデビューした頃はそうだった。好きな世界感、好きな登場人物、好きなストーリーを書いていたのに、いつの間にか自分の好きとは程遠いものを書いていた。