「逃げていいんだよ」と彼は言ってくれた。

「逃げていいんだよ」

 何かもが辛くて八方塞がりだった私に、そう彼は言ってくれた。
 心細くて堪らなかった私の心を丸ごと包むような優しい声だった。
 膝を抱えていた私は初めて顔を上げて、隣に座る彼を見た。
 月明りに照らされた鼻筋の通った横顔が、胸をときめかせる程、綺麗だった。彼の切れ長の目と合った瞬間、気まずくなって慌てて顔を前に向けた。

 目の前には真っ暗な夜の海がある。私が来た時はまだ空が明るかったのに、いつの間に暗くなったのだろう。頬や手に触れる海風の冷たさに今頃気づいた。周囲の状況を感じる余裕もなかったんだ。

「寒い?」 

 両手をさする私に、彼は優しい声で聞いた。

「少し」と答えると、着ていた上着を背中にかけてくれる。シトラスの香りと、上着に残っていた彼の温もりを感じた。
「あ、大丈夫です」

 背中にかけてもらった上着を返そうとしたら、「カッコつけさせて」と言って彼が微笑んだ。その表情が素敵でドキッとする。