夜の帳が、山あいの集落をすっかり包み込んだ。街灯のない場所では、月と星の光が唯一の明かりとなり、その分だけ、空は驚くほど澄んで見えた。合掌造りの屋根に静かに降りる冷気。しんとした空気に耳を澄ますと、自分の吐息さえやけに大きく感じられる。
夜の研修プログラムは終わり、社員たちは各自の部屋で自由時間を過ごしていた。懐かしい造りの宿にはテレビもなく、誰かの笑い声と廊下を歩く足音だけが、ひとときの安らぎの中にあった。
堀田愛奈は、自室の布団に潜り込んでからも、なかなか眠りにつけずにいた。今日一日の出来事が胸の中で何度もよみがえり、そのたびに胸がじんわりと温かくなった。昼間の合掌造りの家の前で交わした言葉、夜の森で交わしたぬくもり。すべてが彼との距離を確かに近づけていた。もう、迷う必要なんてないのかもしれない。
けれど、愛奈の頭の中をふとよぎったのは、向かいの部屋でまだ起きているであろう夏菜恵のことだった。
──お風呂のあと、彼女は言っていた。
「ちょっと星、見に行かない? 天気いいし、東京じゃなかなか見えないから」
そのときは断ったものの、ふと気になってスマホでメッセージを送ってみた。
『まだ外にいる?』
返ってきたのは、『うん、今裏手の遊歩道あたり。誰もいないけど星すっごいよ。来る?』という返事。
愛奈はそっと布団から起き上がり、上着を羽織って足音を忍ばせながら廊下に出た。玄関を抜け、裏庭へ。小道をたどりながら、杉の木が立ち並ぶ山裾へ向かう。頭上には無数の星が瞬いていて、月明かりだけで道の輪郭が浮かび上がるほどだった。
「……夏菜恵?」
呼びかけてみるが、返事はない。足元を気にしながら進んでいくと、木立の陰に誰かが立っているのが見えた。
「あ、いた。こんな奥まで──」
そう思って近づいた瞬間、その人影は音もなく動いた。そして、森の中へと姿を消す。追いかけようとしたが、そこに立っていたのは夏菜恵ではなかった。
「……誰?」
夜の森で聞こえるはずのない足音、そして微かな息遣いのような音が背後から近づいてくる。反射的に振り返ると、何もいない。けれど、明らかに空気が変わっていた。風ではない、木の葉でもない、“人間の気配”が、そこにあった。
愛奈は恐怖で一歩後ずさる。心臓が激しく脈を打ち、頭の中で警鐘が鳴る。急いで来た道を戻ろうとしたそのとき、また何かが枝を踏む音がした。
「……っ!」
本能的に走り出していた。暗闇の中を、星明かりだけを頼りに、全力で駆ける。足元の砂利が転がり、息が乱れる。道の記憶を頼りに小道を曲がると、前方に小さな灯りが見えた。宿の光。もうすぐで安全な場所に戻れる──そう思った瞬間、急な斜面に足を取られて転びそうになった。
「堀田さん!」
その声が、空気を裂いた。
どこかで聞いた声。助けを求めるように顔を上げると、木立の奥から亮祐が懐中電灯を手に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 怪我は……」
「……怖かった……森の中で、誰かに……ついてきてるみたいな、そんな……」
息も絶え絶えに言葉を紡ぐ愛奈を、亮祐はそっと抱きしめた。鼓動が、彼の胸の中で一定のリズムを刻んでいた。その響きが、自分の不安を吸い取るように思えた。
「もう大丈夫です。僕がいます」
彼の声が、深夜の森の空気を裂くように優しく、そして力強かった。
亮祐の腕の中に包まれていると、まるで怖いことなど初めから存在しなかったような錯覚さえ覚えた。彼の体温が、冷えた手足の先までじんわりと染み込んでくる。森の中に潜んでいた“何か”の気配は、彼の声と温もりに押し出されるようにして、確実に遠ざかっていった。
愛奈はそのまましばらく言葉を発せずにいた。彼の腕の中にいる自分を、確かめるようにそっと目を閉じた。こんな風に、誰かに抱きしめられるのは、いったい何年ぶりだっただろう。涙が出るほど心細かったはずなのに、今はただ、胸がいっぱいで息をするのも惜しくなるくらいだった。
「……どうしてここに?」
ようやく言葉を搾り出すように問うと、亮祐は抱きしめたまま、小さな声で答えた。
「部屋の廊下から、裏庭へ出ていくあなたの姿が見えたんです。……なんとなく、気になって。少しだけ様子を見に行こうと思ったら、あなたの名前を呼ぶ声が聞こえてきて……。声の調子が、どこかおかしくて。だから……」
彼の言葉のひとつひとつが、まるで心の奥に落ちてくるようだった。誰かが自分のことを真剣に案じて、行動に移してくれる。それだけで、心がこんなにも救われるものなんだと初めて知った気がした。
「……ありがとう、加藤さん。来てくれて……本当に、怖かったから」
「怖いのは、堀田さんを見失うことでした」
その言葉に、愛奈は驚いて彼の顔を見上げた。夜の森の薄闇の中で、彼の目はしっかりと愛奈だけを見つめていた。あの真面目で、ちょっと抜けたところもある上司の顔じゃない。いま目の前にいるのは、まっすぐに自分の不安や痛みを受け止めようとしてくれる、ただの“ひとりの男性”だった。
「……堀田さん」
「……はい」
「怖かったら、しばらく……このままでいてもいいですか?」
不器用で、どこかたどたどしいその言葉が、愛奈の心をぐっと締めつけた。彼の腕のなかで、軽く頷いた。頷くことでしか応えられないほど、胸がいっぱいだった。自分の鼓動が、彼の胸に伝わってしまいそうで、けれどそれでも離れたくないという気持ちのほうが強かった。
風が木々を揺らし、葉がカサリと音を立てるたびに、彼の腕がほんの少しだけ力を強めた。何からでも守ろうとしてくれるその仕草が、涙が出るほど嬉しかった。
「……あのとき、合掌造りの前で話してくれたこと、覚えてますか?」
「もちろんです」
「私もです。……あのとき、初めて、自分のことを誰かにちゃんと伝えられた気がして。怖がってる自分も、迷ってる自分も、そのままで聞いてもらえて、すごく……安心したんです」
「僕も同じです。堀田さんに、ああ言ってもらえてから、変わりたいって本気で思うようになりました。過去を悔やんでばかりだったけど、今なら……」
言葉の先を言いかけた彼が、ふいに息を呑んだ。何かに迷うように視線を落としたまま、愛奈の手を静かに握り直す。その手のひらは、昼間よりもずっと熱くて、ずっとまっすぐだった。
「……いや、まだ言わないほうがいいですね。……もう少しだけ、あなたの隣にいたいから。焦って、また空回りしたくないです」
愛奈はその言葉に、思わず微笑んだ。そして、そっと彼の手を握り返す。
「いいですよ、待ってます。……でもその代わり、今日のことはずっと覚えててくださいね。怖い夜だったけど、それ以上に、特別な夜だったから」
ふたりはやがて、ゆっくりと歩き出した。森の中に続く小道を、肩が触れ合う距離で歩く。星空はなおも冴えていて、遠くに見える集落の灯りが、まるでふたりを導くように瞬いていた。
宿に戻ると、すでに他の社員たちは部屋に引き上げていた。廊下の照明だけが静かに灯り、夜の静寂が戻っていた。部屋の前で立ち止まり、ふたりはしばらく無言で見つめ合った。言葉はいらなかった。ただ、この夜が特別な意味を持ったということを、確かに共有していた。
「……おやすみなさい、加藤さん」
「……おやすみなさい、堀田さん。ゆっくり、休んでください」
そうして彼がくれた小さな笑顔を胸に、愛奈は自室へと戻った。布団にくるまってからも、胸の鼓動はしばらくおさまらなかった。夢のような出来事。でも、それは夢ではなかった。彼の腕に包まれた感覚も、交わした言葉も、すべてが現実として愛奈の中に残っていた。
夜が明ける頃、愛奈はふと目を覚ました。窓の外に、朝靄がうっすらと立ち込めている。まるで、昨夜の出来事をそっと包み込むように。そしてその奥には、今日という新しい一日が、静かに始まろうとしていた。
彼と一緒に過ごす時間。心が震えるような出来事の中で生まれた確かな想い。それはもはや、ただの“仕事仲間”のそれではなかった。自分でも気づかないうちに、手のひらの中に、きちんと芽吹いていた。
【第六章:深夜に森の中で何者かに追われる】(終)
夜の研修プログラムは終わり、社員たちは各自の部屋で自由時間を過ごしていた。懐かしい造りの宿にはテレビもなく、誰かの笑い声と廊下を歩く足音だけが、ひとときの安らぎの中にあった。
堀田愛奈は、自室の布団に潜り込んでからも、なかなか眠りにつけずにいた。今日一日の出来事が胸の中で何度もよみがえり、そのたびに胸がじんわりと温かくなった。昼間の合掌造りの家の前で交わした言葉、夜の森で交わしたぬくもり。すべてが彼との距離を確かに近づけていた。もう、迷う必要なんてないのかもしれない。
けれど、愛奈の頭の中をふとよぎったのは、向かいの部屋でまだ起きているであろう夏菜恵のことだった。
──お風呂のあと、彼女は言っていた。
「ちょっと星、見に行かない? 天気いいし、東京じゃなかなか見えないから」
そのときは断ったものの、ふと気になってスマホでメッセージを送ってみた。
『まだ外にいる?』
返ってきたのは、『うん、今裏手の遊歩道あたり。誰もいないけど星すっごいよ。来る?』という返事。
愛奈はそっと布団から起き上がり、上着を羽織って足音を忍ばせながら廊下に出た。玄関を抜け、裏庭へ。小道をたどりながら、杉の木が立ち並ぶ山裾へ向かう。頭上には無数の星が瞬いていて、月明かりだけで道の輪郭が浮かび上がるほどだった。
「……夏菜恵?」
呼びかけてみるが、返事はない。足元を気にしながら進んでいくと、木立の陰に誰かが立っているのが見えた。
「あ、いた。こんな奥まで──」
そう思って近づいた瞬間、その人影は音もなく動いた。そして、森の中へと姿を消す。追いかけようとしたが、そこに立っていたのは夏菜恵ではなかった。
「……誰?」
夜の森で聞こえるはずのない足音、そして微かな息遣いのような音が背後から近づいてくる。反射的に振り返ると、何もいない。けれど、明らかに空気が変わっていた。風ではない、木の葉でもない、“人間の気配”が、そこにあった。
愛奈は恐怖で一歩後ずさる。心臓が激しく脈を打ち、頭の中で警鐘が鳴る。急いで来た道を戻ろうとしたそのとき、また何かが枝を踏む音がした。
「……っ!」
本能的に走り出していた。暗闇の中を、星明かりだけを頼りに、全力で駆ける。足元の砂利が転がり、息が乱れる。道の記憶を頼りに小道を曲がると、前方に小さな灯りが見えた。宿の光。もうすぐで安全な場所に戻れる──そう思った瞬間、急な斜面に足を取られて転びそうになった。
「堀田さん!」
その声が、空気を裂いた。
どこかで聞いた声。助けを求めるように顔を上げると、木立の奥から亮祐が懐中電灯を手に駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか!? 怪我は……」
「……怖かった……森の中で、誰かに……ついてきてるみたいな、そんな……」
息も絶え絶えに言葉を紡ぐ愛奈を、亮祐はそっと抱きしめた。鼓動が、彼の胸の中で一定のリズムを刻んでいた。その響きが、自分の不安を吸い取るように思えた。
「もう大丈夫です。僕がいます」
彼の声が、深夜の森の空気を裂くように優しく、そして力強かった。
亮祐の腕の中に包まれていると、まるで怖いことなど初めから存在しなかったような錯覚さえ覚えた。彼の体温が、冷えた手足の先までじんわりと染み込んでくる。森の中に潜んでいた“何か”の気配は、彼の声と温もりに押し出されるようにして、確実に遠ざかっていった。
愛奈はそのまましばらく言葉を発せずにいた。彼の腕の中にいる自分を、確かめるようにそっと目を閉じた。こんな風に、誰かに抱きしめられるのは、いったい何年ぶりだっただろう。涙が出るほど心細かったはずなのに、今はただ、胸がいっぱいで息をするのも惜しくなるくらいだった。
「……どうしてここに?」
ようやく言葉を搾り出すように問うと、亮祐は抱きしめたまま、小さな声で答えた。
「部屋の廊下から、裏庭へ出ていくあなたの姿が見えたんです。……なんとなく、気になって。少しだけ様子を見に行こうと思ったら、あなたの名前を呼ぶ声が聞こえてきて……。声の調子が、どこかおかしくて。だから……」
彼の言葉のひとつひとつが、まるで心の奥に落ちてくるようだった。誰かが自分のことを真剣に案じて、行動に移してくれる。それだけで、心がこんなにも救われるものなんだと初めて知った気がした。
「……ありがとう、加藤さん。来てくれて……本当に、怖かったから」
「怖いのは、堀田さんを見失うことでした」
その言葉に、愛奈は驚いて彼の顔を見上げた。夜の森の薄闇の中で、彼の目はしっかりと愛奈だけを見つめていた。あの真面目で、ちょっと抜けたところもある上司の顔じゃない。いま目の前にいるのは、まっすぐに自分の不安や痛みを受け止めようとしてくれる、ただの“ひとりの男性”だった。
「……堀田さん」
「……はい」
「怖かったら、しばらく……このままでいてもいいですか?」
不器用で、どこかたどたどしいその言葉が、愛奈の心をぐっと締めつけた。彼の腕のなかで、軽く頷いた。頷くことでしか応えられないほど、胸がいっぱいだった。自分の鼓動が、彼の胸に伝わってしまいそうで、けれどそれでも離れたくないという気持ちのほうが強かった。
風が木々を揺らし、葉がカサリと音を立てるたびに、彼の腕がほんの少しだけ力を強めた。何からでも守ろうとしてくれるその仕草が、涙が出るほど嬉しかった。
「……あのとき、合掌造りの前で話してくれたこと、覚えてますか?」
「もちろんです」
「私もです。……あのとき、初めて、自分のことを誰かにちゃんと伝えられた気がして。怖がってる自分も、迷ってる自分も、そのままで聞いてもらえて、すごく……安心したんです」
「僕も同じです。堀田さんに、ああ言ってもらえてから、変わりたいって本気で思うようになりました。過去を悔やんでばかりだったけど、今なら……」
言葉の先を言いかけた彼が、ふいに息を呑んだ。何かに迷うように視線を落としたまま、愛奈の手を静かに握り直す。その手のひらは、昼間よりもずっと熱くて、ずっとまっすぐだった。
「……いや、まだ言わないほうがいいですね。……もう少しだけ、あなたの隣にいたいから。焦って、また空回りしたくないです」
愛奈はその言葉に、思わず微笑んだ。そして、そっと彼の手を握り返す。
「いいですよ、待ってます。……でもその代わり、今日のことはずっと覚えててくださいね。怖い夜だったけど、それ以上に、特別な夜だったから」
ふたりはやがて、ゆっくりと歩き出した。森の中に続く小道を、肩が触れ合う距離で歩く。星空はなおも冴えていて、遠くに見える集落の灯りが、まるでふたりを導くように瞬いていた。
宿に戻ると、すでに他の社員たちは部屋に引き上げていた。廊下の照明だけが静かに灯り、夜の静寂が戻っていた。部屋の前で立ち止まり、ふたりはしばらく無言で見つめ合った。言葉はいらなかった。ただ、この夜が特別な意味を持ったということを、確かに共有していた。
「……おやすみなさい、加藤さん」
「……おやすみなさい、堀田さん。ゆっくり、休んでください」
そうして彼がくれた小さな笑顔を胸に、愛奈は自室へと戻った。布団にくるまってからも、胸の鼓動はしばらくおさまらなかった。夢のような出来事。でも、それは夢ではなかった。彼の腕に包まれた感覚も、交わした言葉も、すべてが現実として愛奈の中に残っていた。
夜が明ける頃、愛奈はふと目を覚ました。窓の外に、朝靄がうっすらと立ち込めている。まるで、昨夜の出来事をそっと包み込むように。そしてその奥には、今日という新しい一日が、静かに始まろうとしていた。
彼と一緒に過ごす時間。心が震えるような出来事の中で生まれた確かな想い。それはもはや、ただの“仕事仲間”のそれではなかった。自分でも気づかないうちに、手のひらの中に、きちんと芽吹いていた。
【第六章:深夜に森の中で何者かに追われる】(終)



