五月の終わり、朝の空はどこまでも高く、眩しいくらいの光を湛えていた。
 堀田愛奈は、キャリーバッグを引きながら新幹線のホームに立っていた。隣には、変わらない穏やかな笑みを浮かべる加藤亮祐。
 ふたりが向かうのは──かつて、社内研修で訪れた合掌造りの集落だった。
 「懐かしいね」
 愛奈が呟くと、亮祐はふっと笑った。
 「うん。……また、あの場所から始めたいなって思ったんだ」
 「……うん」
 自然に手を繋ぎながら、列車に乗り込む。
 車窓に流れる景色は、あのときと同じだったはずなのに、不思議と違って見えた。隣にいる彼と、これから先の未来を一緒に歩いていくという確信が、すべての風景をより鮮やかに染めていたからだろう。
 列車が山間の小さな駅に滑り込むと、ふたりは降り立った。そこからバスに揺られ、さらに山を越え、ようやく辿り着いたのは、懐かしい茅葺き屋根の集落だった。
 「変わらないね」
 「うん。でも、なんだか……違って見える」
 ふたりで並んで歩きながら、愛奈は思った。
 前に来たときは、まだどこかぎこちなくて、触れた手の温もりに戸惑ってばかりだった。
 でも今は、迷わずに、彼の手を握れる。
 宿に着くと、昔と同じように、囲炉裏のある部屋に案内された。懐かしい香りが鼻をくすぐり、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 荷物を置き、ふたりで少しだけ町を散策することにした。
 夕暮れが近づくと、集落は黄金色に包まれた。田んぼの水面に空が映り、柔らかな風がふたりの間をすり抜けた。
 ふと、亮祐が立ち止まり、そっと愛奈の手を引いた。
 「こっち、来て」
 導かれるままに、小道を進むと、開けた場所に出た。そこには小さな丘があり、かつてふたりが星を見上げたあの場所だった。
 「覚えてる?」
 「もちろん」
 あの夜、互いの不器用な想いを言葉にしたこと。
 あの夜、触れた手の温もりに、初めて心が震えたこと。
 すべて、昨日のことのように思い出せる。
 亮祐は、ポケットから小さなノートを取り出した。
 「……これ、覚えてる?」
 愛奈は目を見開いた。
 それは、ふたりだけの計画書だった。
 あの日、オフィスで作り始めた、ふたりの未来を綴るノート。
 「ずっと持ってたんだ」
 そう言って、亮祐はページを開いた。
 そこには、手書きの文字で、たくさんの夢が並んでいた。
 『一緒に星を見に行く』 『喧嘩しても、ちゃんと仲直りする』 『記念日には、必ず手紙を贈る』
 そして、一番最後のページに、こう書かれていた。
 『どんな未来も、ふたりで作っていく』
 愛奈は、胸がいっぱいになった。
 「これからも、一緒に書き足していこう」
 亮祐が、そっと言った。
 「……うん」
 夕陽の中で、ふたりはそっと手を重ねた。
 かつて触れた手と、今繋いでいる手。
 あのときと何も変わらない温もり。でも、確かに深く、強くなった絆。
 目の前に広がる未来は、まだ白紙だ。
 でも、もう怖くない。
 ふたりなら、どんな未来でも描いていける。
 手を取り合って、ゆっくりと歩き出した。



 ふたりは、ゆっくりと小道を歩いた。夕暮れの柔らかな光が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
 足元に咲く小さな野花。空をゆっくりと舞う風。どれもが、まるでふたりを祝福するかのようだった。
 亮祐はふと立ち止まり、愛奈を振り返った。
 「……ねぇ」
 「うん?」
 愛奈が見上げると、彼は少し照れたような、でもどこか決意を秘めた顔をしていた。
 「今、何かひとつだけ願いが叶うとしたら、何を願う?」
 突然の問いかけに、愛奈は少しだけ考えた。
 そして、微笑んで答えた。
 「この手を、ずっと離さないでいられる未来が欲しい」
 亮祐は、優しく笑った。
 「俺も、まったく同じこと考えてた」
 言いながら、彼は愛奈の手をぎゅっと握り直した。
 重なる手のひらから、温もりがじんわりと伝わってくる。
 (この手を、もう二度と離さない)
 心に、静かに誓った。
 丘の上に立つと、視界いっぱいに星空が広がった。かつて見上げたあの夜よりも、もっと鮮やかに、もっと近くに星が瞬いていた。
 「……きれい」
 愛奈が呟くと、亮祐も同じように空を見上げた。
 「きっと、君と一緒だから、こんなにきれいに見えるんだろうな」
 さらりと、でも心の奥に深く響く言葉だった。
 ふたりはベンチに腰掛け、肩を寄せ合った。
 星の海に包まれながら、何も言葉を交わさず、ただ互いの存在を感じ合った。
 ふと、愛奈が口を開いた。
 「ねぇ、加藤さん」
 「うん?」
 「これから、どんな未来が待ってるかわからないけど……」
 「うん」
 「たとえ遠回りしても、迷っても、ちゃんとあなたの手を掴みに行くから」
 「……うん」
 「だから、待っててね。私が迷ったときも、立ち止まったときも、そっと手を差し伸べてほしい」
 亮祐は、黙って頷いた。
 そして、静かに言った。
 「君が手を伸ばす前に、俺から掴みに行くよ」
 その言葉に、涙が溢れた。
 嬉しくて、愛しくて、胸がいっぱいになった。
 ふたりはそっとキスを交わした。
 それは、これまでのどんなキスよりも優しく、深かった。
 ──触れた手から始まった恋。
 ──触れた手が繋いだ未来。
 すべてが、この瞬間に繋がっていた。
 夜が更け、星々がより一層鮮やかに輝く中、ふたりはそっと寄り添ったまま、未来を見つめた。
 ──何があっても、大丈夫。
 ──ふたりなら、きっと、どこまでも行ける。
 温もりを確かめながら、ふたりは静かに誓い合った。
 もう、言葉はいらなかった。
 重なり合った手のひらが、すべてを伝えていたから。
 【第二十章(最終章):触れた手から、未来へ】(終)