初夏の風が街路樹の葉を優しく揺らしていた。透明な青空が広がる休日、堀田愛奈は白いワンピースに袖を通し、鏡の前で軽く髪を整えた。
 今日は、亮祐が「少し遠出しよう」と提案してくれた日だった。行き先は秘密だと言われていたけれど、愛奈には何となくわかっていた。
 (きっと……特別な日になる)
 そんな予感があった。
 駅前で待ち合わせた亮祐は、紺色のシャツにベージュのジャケットというラフな服装だったが、どこかいつもより落ち着かない様子だった。
 「……待たせた?」
 「ううん、今来たところ」
 微笑み合いながら並んで歩き出す。そのぎこちなさが、愛奈にはとても愛しかった。
 電車に揺られて向かったのは、海辺の小さな町だった。潮の香りが風に乗って漂い、港には色とりどりの漁船が揺れていた。
 ふたりは港を散策し、海沿いのカフェでランチを楽しみ、アイスクリームを食べながら防波堤を歩いた。まるで絵に描いたようなデートコース。
 でも、亮祐はどこか落ち着かない。時折、ポケットに手を入れては、何かを確認するような仕草を繰り返していた。
 (──何か、隠してる?)
 愛奈は気づいていた。でも、何も言わなかった。
 防波堤の先端まで来たとき、亮祐はふと立ち止まった。空と海がひとつに溶け合う水平線が、目の前に広がっていた。
 「……愛奈さん」
 「うん?」
 振り返ると、彼は真剣な顔をしていた。何か言おうとして、けれど言葉が出てこない様子だった。
 その手が、ポケットの中で何かを握りしめているのが、ちらりと見えた。
 (……もしかして)
 胸が高鳴った。でも、亮祐は結局、何も取り出さなかった。
 「……そろそろ、帰ろうか」
 そう言って、微笑んだ。
 愛奈も微笑み返した。
 「うん、帰ろう」
 その夜、愛奈は亮祐の家に招かれた。
 小さなテーブルには、手作りの料理が並んでいた。鶏肉のソテーに、カプレーゼサラダ、バゲット。どれも、亮祐が一生懸命作ったのだとわかる優しい味だった。
 「おいしい」
 「本当に? よかった……」
 食後、ふたりでソファに並んで座り、何気ない会話を続けた。けれど、亮祐の視線は時折、リビングの棚の一角へと泳いだ。
 愛奈は気づいていた。そこに、小さな黒い箱が置かれていることを。
 ──指輪の箱。
 きっと、今日のために用意してくれたのだろう。でも、亮祐はまだ、何も言い出せずにいる。
 (……大丈夫だよ。急がなくても)
 愛奈は心の中でそっと呟いた。
 やがて、夜も更け、帰る時間が近づいた。愛奈が立ち上がると、亮祐も慌てて後を追った。
 「……あの」
 呼び止められ、振り返る。
 亮祐は、何かを言いかけて、結局、言葉を飲み込んだ。
 そして、ポケットからそっと取り出したのは──何もなかった。
 (ああ、この人らしいな)
 愛奈は優しく微笑んだ。
 「また、ね」
 手を振って、家を出た。
 ドアが閉まる直前、ちらりと見えたリビングの棚。開けたままの指輪の箱が、月明かりに照らされていた。



 夜風が頬を撫でる中、愛奈は亮祐の家からの帰り道を歩いていた。小さなカバンを抱きしめるように持ちながら、微笑みを浮かべていた。
 胸の奥には、ほんの少しの切なさと、それ以上の温もりがあった。
 ──開けたままの指輪の箱。
 あれは、きっと今日、彼が勇気を振り絞ろうとした証だった。けれど、言葉にはならなかった。タイミングを掴み損ねたのだろう。あるいは、もっと特別な瞬間を探しているのかもしれない。
 (……無理に言わなくていいよ)
 愛奈はそっと心の中で囁いた。
 (あなたが、あなたらしい方法で伝えてくれるなら、それでいい)
 愛奈にとって、すでに答えは決まっていた。たとえ正式な言葉がなくても、あの不器用な仕草と温かな眼差しだけで、十分だった。
 翌日、オフィスで顔を合わせた亮祐は、どこかバツが悪そうにしていた。けれど、愛奈はあえて何も触れなかった。
 「おはようございます、加藤さん」
 「……お、おはよう、愛奈さん」
 ぎこちないやりとり。でも、そのぎこちなさが、たまらなく愛しかった。
 ランチタイム。社内カフェでふたり並んで座ったとき、亮祐がふいに言った。
 「……昨日、ありがとう」
 それだけ。けれど、その一言に、どれだけの想いが込められているか、愛奈には痛いほどわかった。
 「ううん。私こそ、ありがとう」
 微笑み合うだけで、十分だった。
 その日の帰り道、愛奈はふと思い立って、小さな雑貨店に立ち寄った。
 そこには、色とりどりのノートや便箋、メッセージカードが並んでいた。
 (……そうだ)
 店内をぐるりと見渡し、シンプルな白いカードを一枚選んだ。表紙には、金色で小さな四葉のクローバーが描かれている。
 ──ふたりだけの計画書、あの日描いた未来。
 あの続きは、ふたりで、少しずつ書き加えていきたい。
 カードの裏に、そっとペンを走らせた。
 『待ってるね。いつでも、あなたのタイミングで。』
 それだけ書いて、封筒に入れた。
 次に亮祐と会ったとき、そっと彼のバッグに忍ばせた。何も言わずに。
 夜、亮祐からメッセージが届いた。
 『ありがとう。俺、絶対にちゃんと伝えるから。』
 その短い言葉に、胸が熱くなった。
 数日後、ふたりはまた休日を一緒に過ごした。大きな公園のベンチに座り、ソフトクリームを分け合いながら、くだらない話をして笑い合った。
 「……愛奈さん」
 ふと、亮祐が真剣な顔になった。
 「うん?」
 「この前、言えなかったこと、言わせてほしい」
 心臓が跳ねた。
 彼は、ポケットから小さな黒い箱を取り出した。あの、開けたままだった箱。
 でも今日は、ちゃんと両手で包み込むようにして、愛奈の前に差し出した。
 カチリ、と静かな音を立てて開かれた箱の中には、小さなダイヤの輝く指輪。
 「俺と、結婚してください」
 それは、たった一言だった。
 でも、世界でいちばん優しい、重みのある言葉だった。
 愛奈は、笑いながら涙をこぼした。
 「はい。喜んで」
 指に嵌められた指輪は、少しだけ冷たくて、それ以上に温かかった。
 ふたりは、ベンチの上でそっと抱き合った。
 周りの喧騒も、子供たちのはしゃぐ声も、春の風も、すべてが祝福してくれているように思えた。
 ──開けたままの指輪の箱は、こうして、ふたりの未来へと繋がった。
 まだ白紙だった“ふたりだけの計画書”に、またひとつ、新しいページが書き加えられた。
 『これからも、ずっと一緒に。』
 【第十九章:指輪の箱は開けたままで】(終)