初夏の気配が街を包み始めた頃、堀田愛奈は、オフィスの小会議室でそっと深呼吸をした。目の前には、加藤亮祐。大きな窓から射し込むやわらかな陽光が、彼の横顔をふんわりと照らしている。
 今日、ふたりは初めて本格的にタッグを組んで、プレゼンプロジェクトを担当することになっていた。別々のチームに属していながら、今回だけは“特別編成”という形で、重要案件に取り組むことになったのだ。
 手元のテーブルには、愛奈がまとめた資料と、亮祐が書き込んだアイデアブックが並べられている。ふたりの文字が重なったそのページを見るだけで、胸がじんと熱くなった。
 「ここ、君のアイデアに乗っかってみたんだけど、どう思う?」
 亮祐が、自分のノートを指差しながら言う。その声には、かすかな照れと誇らしさが滲んでいた。
 愛奈は顔を近づけて、彼の字を追った。
 「……すごく、いいと思う。私の考えてた方向性ともぴったり」
 心からそう思った。ふたりの発想が、自然に寄り添うように重なっていることに、胸が温かくなった。
 「よかった」
 亮祐が、ほっとしたように笑った。その笑顔を見て、愛奈もつられて笑った。
 プロジェクトの準備は、想像以上に順調に進んだ。アイデア出しも、資料作りも、互いに補い合うようにして、まるで昔からずっと一緒に働いてきたかのように息が合った。
 時折、手が触れ合った。ふと目が合って、ふたりとも小さく笑った。
 そんな一瞬一瞬が、何よりも愛おしかった。
 夕方、プレゼン資料がひと段落した頃、愛奈はふと提案した。
 「……このノート、ふたりだけの“計画書”にしない?」
 「計画書?」
 「うん。仕事だけじゃなくて、これからのふたりの……未来のことも、書いていきたいなって」
 思いつきだった。だけど、言葉にしてみたら、すとんと胸に落ちた。
 亮祐は、少し驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
 「……いいね。すごくいい」
 彼はノートを開き、ページの隅にそっとペンを走らせた。
 『ふたりだけの計画書』
 きれいな字で、タイトルが記された。
 「最初のページ、何を書こうか?」
 亮祐が尋ねた。愛奈は、少し考えて、にっこり笑った。
 「まずは、プレゼンを成功させること」
 「賛成」
 ふたりで声を合わせて笑い合った。
 それから、未来の夢を書き連ねた。
 『一緒に海外旅行に行く』 『お互いにやりたいことを応援し合う』 『疲れたら、どちらかが全力で甘やかす』 『月に一度は、デートの日を絶対に作る』
 どれも些細なこと。でも、そのひとつひとつが、ふたりの未来を確かに形作っていく気がした。
 書きながら、愛奈はそっと亮祐を見た。
 (この人となら、どんな未来でも、怖くない)
 ノートの端に、小さくハートマークを描こうとして、思いとどまった。仕事のノートだったことを思い出し、代わりに小さな四葉のクローバーを描いた。
 亮祐はそれに気づき、ふわりと笑った。
 「……いいね、それ」
 「幸運のお守り、だよ」
 愛奈は少し照れながら答えた。
 会議室の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。窓の向こうに広がるビル群が、オレンジ色の光に包まれている。
 「そろそろ、帰ろうか」
 亮祐が立ち上がり、荷物をまとめる。愛奈もノートをそっとバッグにしまった。その手の中に、未来への小さな灯火がある気がした。
 エレベーターの中、ふたりきりの空間に、ほのかな緊張感が漂った。
 「愛奈さん」
 「うん?」
 「……この先、どんな未来が待ってても、ずっと一緒に歩いていきたい」
 突然の言葉に、心臓が跳ねた。
 愛奈は、微笑んで頷いた。
 「うん。私も」
 小さな約束。でも、世界で一番大切な約束だった。



 エレベーターが静かに地上階へ到着する。ドアが開き、外の世界へと一歩踏み出すと、夕闇が街を優しく包んでいた。昼間の喧騒は遠のき、オフィス街にも柔らかな静けさが広がっている。
 ビルの前で立ち止まったふたりは、自然に顔を見合わせた。
 「……歩こうか?」
 亮祐の提案に、愛奈は頷いた。
 「うん、少しだけ」
 鞄を肩にかけ直しながら、並んで歩き始める。アスファルトを打つ自分たちの足音が、まるで小さなリズムのように重なる。
 駅とは反対方向の、人気の少ない並木道を選んで歩いた。街灯の下、細かい葉が風に揺れて、優しい影を地面に落としていた。
 「今日さ」
 亮祐がふいに切り出した。
 「プレゼンの準備しながら思ったんだ。……俺たち、仕事でもプライベートでも、意外とうまくやっていけそうだなって」
 愛奈は小さく笑った。
 「うん、私も思った。同じ方向を見て、同じゴールに向かっていける人って、そうそういないよね」
 「うん。しかも、ただ気を遣うだけじゃなくて、ちゃんと自分の意見も言い合える」
 「それ、すごく大事」
 言いながら、心の中でそっと思う。
 (こうやって、ひとつずつ積み重ねていけるんだ。ふたりなら)
 交差点で信号が赤になり、立ち止まった。ふと、亮祐がポケットから小さなメモを取り出した。
 「実は……もうちょっと続き、考えてきた」
 「え?」
 驚く愛奈に、亮祐は照れたように笑って、メモを広げた。
 そこには、さっきふたりで作った“二人だけの計画書”の続きが手書きでびっしりと書き込まれていた。
 『ふたりで新しいことに挑戦する』 『年に一度、必ず記念日をお祝いする』 『喧嘩しても、ちゃんと話し合って仲直りする』 『どちらかが疲れたときは、全力で支える』
 愛奈は、胸がぎゅっと締め付けられるような感動を覚えた。亮祐が、こんなにも真剣に未来を考えてくれている。それが、ただただ嬉しかった。
 「……ありがとう。すごく、すごく嬉しい」
 思わず、声が震えた。
 亮祐は、少しだけ真顔になって愛奈を見た。
 「これから先、何があっても、君と一緒に考えて、君と一緒に選んでいきたい」
 信号が青に変わる音が聞こえた。でも、ふたりは動かなかった。立ち尽くしたまま、静かに、確かに、心を重ねていた。
 愛奈は、メモをぎゅっと胸に抱きしめた。
 「……私も。どんな未来でも、あなたと一緒に決めていきたい」
 言葉にして、ようやく自分の本心が形になるのを感じた。
 街灯がふたりの影を優しく重ねる。そっと手を伸ばし、亮祐の指に自分の指を絡めた。自然に、当たり前のように。
 「じゃあ、次のページに書こうか」
 亮祐が、微笑みながら言った。
 「“一緒に未来を作っていく”って」
 「うん、絶対に」
 ふたりはまた歩き出した。未来へ続く長い道を、手を繋いだまま。
 冷たい風が吹き抜ける。でも、その手の温もりがあれば、どんな夜も怖くなかった。
 ──ふたりだけの計画書。
 それは、まだ白紙のページがたくさん残っている。
 これから、喧嘩をすることも、泣かせることも、もしかしたらすれ違うこともあるかもしれない。
 それでも。
 ひとつひとつの瞬間を、ふたりで書き込んでいこう。
 未来を、ふたりで作っていこう。
 どこまでも、どこまでも。
 【第十八章:二人だけの計画書】(終)